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「滅びの夜ーー二百年前」

石造りの王城に灯された光は、風に脆く揺れ、消えかけの蝋燭のように震えていた。


深夜の玉座の間。その重厚な扉の向こうからは、血と焼け焦げた肉の臭いが染み込んだ風が、鈍い鉄錆びの空気を運んでくる。剣戟の金属音と、断末魔の叫び。もはやそれは戦の響きではない。滅びを告げる鐘の音だった。


王城は、音もなく、しかし確実に崩れ落ちていた。石の軋み、遠雷のような瓦礫の音だけが、死にゆく国の呼吸のように響いていた。

高窓の裂け目から吹き込む風にセファルディア王家の紋章を染め抜いた大旗がはためいてた。


そこに刻まれていたのは、一つの大樹。

 雪のように白く、枝葉は天を突き、幹は雷に裂かれたような文様を持っていた。

 その根元には、一頭の黒豹。しなやかで、猛々しい獣が、天を仰ぎ、大樹に向かって咆哮している。その姿は、まるで夜の闇が真理の光へと吠えかかっているようだった。

それを刻んだその旗は、かつてこの国が誇った理想の象徴


ーーだが今は、傷み、煤け、ほころびかけた端を翻しながら、静かに夜空を裂いていた。


「司宰……手紙と“かの書”は、無事ルミアール王のもとへ届いただろうか?」


老王アルフレッドが、掠れた声で問うた。声音には疲労の色が濃かったが、眼差しには未だ鋼のような光が宿っている。かつて幾つもの戦場で剣を振るったときと、変わらぬ視線だった。


「最も優秀な伝令に託しました。命に代えても届けるでしょう」


老司宰ノアンの答えに、王は静かに頷いた。


「……レオン王には、辛い選択を強いてしまったな」


「ですが、あの方なら理解してくださいます。ダラン将軍は――顔を真っ赤にして反対しておられるでしょうが」


ノアンの口元にわずかな笑みが浮かぶ。重く沈む空気のなか、彼らの間にだけ通う静かな温もりがあった。


そのやりとりに、近衛兵のひとりがくすりと笑う。死が間近に迫る玉座の間に、小さな灯のような微笑みが生まれた。


「転移の通路は?」


「すでに崩落させました。祭壇前の門には、近衛たちが最後の防衛線を築いております。……今は、彼らを信じるしかありません」


「我らの中でも最精鋭の者たちが、命を懸けて守っております。使命を果たさぬはずがありません」


近衛隊長セリクの言葉に、兵たちは無言で頷いた。


王は目を細めた。


「……よくやった」


そこに並ぶ者たちは、かつて共に剣を取り、幾度も修羅場を潜り抜けてきた戦友たちだった。


「まさか、この三人で再び剣を振るう日が来るとはな」


セリクが、傷だらけの甲冑を手で撫でながら苦笑する。


「遊びの剣が、本物になったのはいつだったか……」


「お前が初めて鼻血を出した日だ。忘れもしない」


ノアンが目を細めると、セリクは顔をしかめた。


「こんな時に思い出させるとは……本当に意地の悪いジジイだな、お前は」


「ノアンよ、からかうのはそのくらいにしておけ」


アルフレッドの声は柔らかかった。笑みの奥には、過ぎ去った年月を見つめる深い陰りが混じっていた。


「……だが、その鼻血がきっかけで、お前の剣の才と癇癪の度合いを見極めたのだ。今でも忘れんよ」


「癇癪言うな!」


「はい、陛下」


ノアンがわざとらしく頭を下げたとき、そこには幼い頃のいたずらな笑顔が重なって見えた。


彼らのやりとりに、兵たちの顔にもわずかな安堵の色が浮かぶ。

静かだった玉座の間に、かすかだが確かな「笑い」が芽生えた。


誰もが死を覚悟しているはずだった。

それなのに、不思議と恐れが遠のくような――そんな瞬間があった。


三人の会話は、誰もが思い出すかつての訓練場での一幕だった。

兵たちはその温もりに包まれ、いくばくかの緊張を解いた。


次の瞬間に待つ刃を知りながら、彼らは剣ではなく、人の声に耳を傾けていた。


アルフレッドは微笑ましくその様子を眺めると、ふと遠くを見るように目を細めた。


「三人で剣を振るう日が再び来ようとは……。いや、あの頃から私は、いつかこうなると――どこかで予感していたのかもしれん」


その声には、遠い未来を読み取っていた者の静かな重みがあった。


「……儂の決断が、あの子らには重すぎなければよいが」


「いいえ。あの子たちは“託された”ことを誇りに思うでしょう。陛下の選択は、未来を繋ぐための希望です」


王は目を閉じ、ひとつ息を吐いた。


「ならば、我らもせめて――その希望に応えねばな」


そして静かに呟いた。誰に語るでもなく、ただ己の中で確かめるように。


「名君と呼ばれることなど、望まぬ。ただ、我が民と未来を護るために、なすべき務めを果たすのみだ」


――そのときだった。


扉の向こうから、石を擦るような金属音が響いてきた。

規則正しく、冷たく、無慈悲に。まるで死神が足音で刻む葬送曲のように。


玉座の間に、重い静寂が落ちる。


誰もがその音を聞き、そして悟っていた。

これは終わりの始まりであると。


扉が、ゆっくりと、しかし確かな“意志”をもって開かれる。


鉄が軋み、空気を引き裂くような音が、長く、長く鳴り響いた。


誰ひとり剣を抜かない。

王の側に立つ者たちは、息を殺し、指先すら動かさず、ただその瞬間を待っていた。

眼には、確かな火が灯っている。剣ではなく、意志で迎え撃つ――それが、彼らの戦いの形だった。


扉の隙間から、蝋燭の光が差し込む。

その光に照らされたのは、数多の刃。


だがそれは銀ではなかった。


斃れた同胞たちの幾多の血と断末魔を吸ったそれらの剣は、銀ではなく──夜の底を宿すような黒き鈍光を放っていた。


やがて、影が染み出すように広がっていく。


銀の仮面をつけた兵たちが、幻影のように玉座の間へと入り込んできた。

その姿は、まさに悪夢そのもの。現実が侵食されていく。


そして――男が現れた。


漆黒の鎧に身を包んだ長身の男。

その姿は、闇夜に濡れた刃のように鋭く、冷たく、突如として現れた異物だった。


濡羽色の黒髪、紅を灯す瞳。その瞳には、滾る血の記憶が揺らめいていた。


胸元に刻まれたのは、翼を広げた真紅の鷹。その背後に、禍々しく輝く七芒星の紋章。

それは、この男がただの使者ではないことを物語っていた。


男は神殿の儀式を思わせる静謐さで、玉座へと歩を進める。

一歩ごとに空気は重く沈み、世界そのものが異質なものへと変貌していく。


威風。威圧。威厳。

空間そのものがその男の歩みによって変質したかのようだった── その場にいた者たちは言葉を失い、ただ沈黙の中に呑み込まれていた。兵の喉がごくりと鳴る音すら、異物の侵入のように響いた。

だが、誰も目を逸らさなかった。

胸に満ちるのは、恐怖ではない。静かで、確かな決意。


これは、生き残るための戦いではない。

未来へ命を繋ぐための戦い。


剣を抜かずとも、心の内ではすでに、その刃は抜かれていた。


男は王の前まで進み、静かに一礼した。

その所作には礼節が宿っていた。だが、その奥に潜む意志は、氷のように冷たく、抗えぬ支配の意図を滲ませていた。


男の紅い瞳が、玉座の王を見つめた一瞬だけ、ほんのわずかに揺らめいた──まるで、自らがかつて追い求めた理想と重なる幻影を見たかのように。


「セファルディア王──アルフレッド殿。

 あなたの勇気と統治の才に、心より敬意を表します」


その声音は端正で、言葉には品がある。

だが、その奥底には、拭いがたい執念が潜んでいた。


王は一瞥をくれ、静かに睨み返す。

老いた瞳には、なお揺るぎなき光が宿っていた。


「……対話を装い、何を求める」


男は表情を変えず、淡々と口を開いた。


「血を流すことは、我らも望むところではありません。

 英断を下せば、臣民の命と領土の安寧を約することもできましょう。──貴殿が膝を屈すならば、ですが」


一瞬、空気が凍った。

玉座の間に、時間そのものが停止したかのような静寂が訪れる。


やがて王はゆっくりと身を起こし、まるで相手の心臓を掴むような眼差しを向けて言った。


「……飾った言葉を並べたな」


男はそれに頷くでも否定するでもなく、淡々と応じる。


「選択肢を提示しているにすぎません。

 無意味な死よりも、生きて守る道があることを、知っていただきたい」


その声には、怒りも憐れみもなかった。

あるのはただ、純粋な支配と合理の論理。


王は口元を歪め、冷ややかに笑った。


「我らは──とうに選び終えている。降伏など、初めから眼中にない」


老いた声が、玉座の間を打つように響く。


「この命も、この城も、未来を繋ぐ礎となれば、それでいい。

 ここで終わることを、我らは恐れぬ。──貴様こそ覚えておけ。

 我が死は、貴様らの道に“希望”という名の楔を打ち込むことを」


男の瞳がわずかに細められる。だが、すぐに平静を取り戻した。


王は一歩踏み出すように言葉を続ける。


「我らは最後の一人まで戦う。未来を託すために──それが、セファルディアの意志だ」


男は王の隣に立つ臣下達の表情をじっと見つめた。

そこには、疑いようのない強い決意が宿っていた。


男は一拍の沈黙を置き、やや声音を低くして告げた。


「……では最後に、ひとつだけ問おう」


息をのむ気配が、玉座の間に静かに広がる。


「“七つの書”──かつてセファルディアの王が秘匿したとされる、“トートの律法”の行方を──」


空気が、凍った。


「貴様、どこでそれを……」


ノアンの瞳が鋭く光り、セリクが剣の柄に手をかけた。

だが王はわずかに首を振り、手を上げてそれを制した。制止の手をかざしたまま、目を閉じ、深く息を吐いた。

その動作には、確かな“決意”と“静かな怒り”が宿っていた。


「“トートの律法”……それが狙いか。

 皇帝は知らぬな。あの者は、セファルディアの魔道具にしか興味がない。

 ──表向きの収集家よ」


男の表情が、わずかに動いた。王は続ける。


「貴様らの目的……いや、“貴様だけ”の目的はそれか。

 皇帝の名を借り、自らの野望を進めていると見える」


「だが、それは渡せぬ。“それ”は未来を開く鍵であると同時に、世界を滅ぼす扉でもある。

力を求める者ほど、その本質から遠ざかる」


男は静かに頷いた。その瞳に揺らぎはない。


「……察しが早い。だが、我らはすでにそのうちの一冊、《終ノ書〈ネクローシス〉》を手にしている。」


王の瞳が、さらに剣のような光を帯びる。


「その胸の紋章を見たとき、疑いはあった……だが、今、確信に変わった。

 貴様、我らの先祖が滅ぼした“大国”の者だな」


男は、しばし口を閉ざした。

やがて、静かに、神託のように名を口にした。


「……まだ、名乗っていなかったな……我が名は、レオナール・レグノス。

 我が血脈こそ、正しき王家の証」


ざわり、と玉座の間の空気が震える。


「かつてセファルディアが滅ぼした王国──その正統なる継承者として、我はこの地に立つ。

 我が祖の王位が踏みにじられ、歴史から抹消されたあの日より、我が家は復讐と再興を誓った」


その声には、抑えがたい情念と、積年の執念が宿っていた。


「“トートの律法”は、ただの力ではない。

 それは王権そのものであり、奪われた玉座に至る唯一の鍵、そして、真の秩序だ」


「真の秩序だと…」


レオナールの目には、一片の揺らぎもなかった


「国が、民が、意志を持ちすぎるゆえに争いが絶えぬのだ。ならば、ただ一つの大義のもとにすべてを統一すればよい。“書”の力をもって世界を縛り、戦火を終わらせる。愚かな理想家たちにはできぬことだ…だが、私ならできる」


「秩序とは、絶えず崩れるものだ…ただ一つの大義のもとにすべてを統一すればよいか……それは、支配ではない“管理された滅び”だ」


「違う。“滅び”を恐れるからこそ、人は何かを守ろうとするのだ。“滅ぼす者”がいなければ、誰も剣を抜こうとはしない」


レオナールの目が、一瞬だけ王を見据える。


「貴様も、かつては戦で国を築いた男だろう。ならば分かるはずだ。最も深く、冷たく、揺るぎなき秩序とは、剣で築くしかないことを」


王は、目を細めた。その瞳に浮かぶのは、怒りではなかった。

それ以上に──深い、悲しみ。


この男の中に、“誇り”があることを見てしまったからだ。

だが、それは誤った誇り。過ちの上に築かれた王道にすぎなかった。


「…愚か者が…貴様は、あれを使う気か……」


「使わぬさ。いや――使わずに“支配する”ことが肝要だ。力とは誇示するものではない。従わせるための“影”として存在すれば、それでよい」


老王は、重い鎧の音を響かせながら、ゆっくりと立ち上がった。

その動作ひとつに、国を背負ってきた歳月と、これから背負う“死”の重みが宿っていた。


「ならば我らは、あれを使わせぬためにも立とう。

 たとえ滅ぼうとも、貴様の望む未来だけは、決して許すわけにはいかぬ」


レオナールは、わずかに口角を上げた。だがそれは、笑みと呼ぶにはあまりにも冷たかった。


「……やはり、そう答えるか。……残念だ」


そこに悔いはなかった。


王は静かに剣へと手を伸ばす。


「いや。──光栄なことだ。

 わが死が、お前たちの道を塞ぐ“楔”となるのならばな」


金属の音が鳴り、王の剣が鞘を離れた。

玉座の間を緊張が支配する。


そして、老王は声を張り上げた。


「これが──余の最後の命だ。

 あの男を討て。未来に、禍根を残さぬために!」


剣が一斉に抜かれ、戦が始まった。


火花が散り、血が舞う。

近衛隊長セリクの双剣が仮面の兵士の喉を裂き、司宰ノアンの雷が敵を貫いた。

だが仮面の兵たちは、尽きることなく現れ続ける。

次第に、城を守る者たちは包囲されていく。


セリクは最期の矜持を胸に、剣を振るい続けた。

だが、隙を突かれ──敵を道連れに倒れ伏す。


ノアンもまた、最後の魔力を振り絞って雷撃を放ったが、背後からの刃に崩れ落ちた。


それでも王は、仲間たちが命で築いた道を進む。


レオナールもまた、剣を抜き、老王と向き合う。


王の一撃は鋭く、重い。

だが、それは受け止められ──次の瞬間、胸を貫かれ、崩れ落ちる。


静寂のなか、レオナールは剣を引き、血を払った。


「……よろしいのですか?」


部下の問いに、彼はゆっくりと頷く。


「誇りある王と臣だった。

 哀れではない。──誇り高き終焉だった。私の知る、どの王よりもな」


剣を収め、兵たちは頭を垂れた。


「楔、か……ならば、その楔ごと、我が王道で叩き壊してくれよう。

貴様が命を懸けた未来──その先を見せてやる」


勝者の歓喜も、敗者への憐憫も、そこにはなかった。

ただ、静かな確信だけがあった。


崩れゆく城。夜空を焦がす炎のなか、レオナールは背を向けて去っていく。


──そのとき放たれた老王の叫びは、

廃墟の中で、時を越えて。


いつか、未来を託された若者たちの物語へと──繋がっていく。

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