夜の底に浮かぶもの
夜の底に浮かぶもの
(『夜の奥に沈むもの』 続編)
一 静かな生活
雨の降る朝だった。
ジークは小さな町の外れ、湖畔にある古びたコテージでひとり暮らしている。
朝食はパンと薄いスープ。ラジオは鳴らさない。テレビもない。必要最低限の生活。
彼は人と話さなくなった。いや、話せなくなったのかもしれない。
エレノアが死に、マイケルが捕まり、すべてが壊れたあの夜から、時間は確かに流れていた。
でも、ジークの中では止まったままだった。
彼の夢には、毎晩のようにマイケルが現れる。
血の気の引いた顔で、あの時と変わらない笑みを浮かべて、「また会える」と囁く。
「……笑えたもんじゃないな」
ジークはスープを口にし、目を伏せた。
その日、郵便受けに一通の手紙が入っていた。差出人の記載はなかった。
中には一言だけのメモ。
「今夜、会いに行く」
その文字は、確かにマイケルの筆跡だった。
二 再来
夕暮れ。風のない湖のほとりに、足音がひとつ。
ドアをノックする音。
ジークは静かに扉を開けた。
そこに立っていたのは、マイケルだった。
かつてと同じ灰色の目、落ち着いた声、整った身なり。だが、どこかが違った。
彼は以前よりも痩せ、目の奥に深い影を宿していた。
「……本当に、お前なのか?」
「本物だよ。ちゃんと……出てきた」
「どうしてここが?」
「君のことは、ずっと見てた。僕がいなくても、寂しくないかって」
ジークは無言でマイケルを中に入れた。言葉は、もはや意味をなさなかった。
「君は……一人で暮らしてた?」
「ああ」
「エレノアの声は……もう、聞こえない?」
「毎晩、夢に出る。泣いてる。何も言わずに」
マイケルは静かにうなずいた。
「僕もだよ」
そして二人は、何も言わずにソファに座った。雨が、また降り始めていた。
三 異変
マイケルが戻ってから、奇妙なことが増えていった。
町で猫が数匹失踪した。
湖畔のキャンプ場で、一人の若者が行方不明になった。
新聞の隅に載るような、それだけの話。
だがジークは気づいていた。マイケルの夜の外出。
服についた微かな赤い染み。指に残る土のにおい。
「マイケル。お前……」
「君はもう、何も考えなくていい。僕が全部、処理するから」
「また……誰かを殺してるのか?」
マイケルは答えなかった。
ただ、悲しそうにジークを見つめて言った。
「僕は……君が生きてる限り、すべてを守る」
ジークはその時、自分が選べる選択肢など、とうに消えていたことを悟った。
四 箱
ある日、ジークは湖の近くで、半ば埋もれた小さな木箱を見つけた。
鍵がかかっていたが、簡単に壊せた。
中には写真が入っていた。
エレノアの写真。
幼い頃の自分とマイケル。
そして――最近撮られたはずの、自分の寝顔。
ジークは震えながらマイケルを問い詰めた。
「お前、いつからここに?」
「ずっといたよ。君が気づかないだけで、家の外にいた。湖の向こうから、毎晩見てた」
「なぜ……」
「君をひとりにしないって、約束したから」
ジークは叫びたかった。怒りたかった。
だが、声は出なかった。
それほどまでに、マイケルの存在は静かで、恐ろしく、同時に心地よかった。
五 共存
数週間後、町の警察がジークの家を訪れた。
行方不明者の捜査だという。ジークは何も知らないと答えた。
マイケルはその夜、スープを作っていた。
「君は、僕とこうして過ごすのが、嫌か?」
「……もう分からない」
「じゃあ、それでいい。分からないまま、ここで暮らせばいい」
「……エレノアは、許してくれると思うか?」
「それは分からない。でも、君がここで生きていてくれれば、それでいいんだ」
ジークはその晩、はじめて自分からマイケルの隣で眠った。
夢の中で、エレノアは微笑んでいた。泣いてもいなければ、叫びもしていなかった。
ただ、どこか遠くへ、背を向けて歩いていった。
六 静かな終わり
数ヶ月が過ぎた。
警察も訪れなくなり、ジークのことを知る人もいなくなった。
町は変わらず、湖は静かだった。
二人は毎日、食事を作り、音楽を流し、絵を描いたりした。
ジークは夜、時々泣いた。マイケルはそっと抱きしめた。
「君が壊れてしまっても、僕はここにいるよ」
「俺は……もう壊れてるよ」
「じゃあ、一緒に壊れていこう」
静かな部屋。湖の音。マイケルの微笑み。
ジークは、それを“平穏”と呼ぶことにした。
たとえその平穏が、死体の上に築かれたものでも。
たとえそれが、世界から隔絶された虚構の幸福でも。
それでも、二人は――確かに、そこで暮らしていた。
⸻
完