72 天使の想い
――――蓮夜の放った漆黒の魔力が天使を呑み込んでいく。
暗い光の海に沈みゆく意識の中で、天使の脳裏には走馬灯のように記憶が蘇っていた。
かつて同胞たちと共に大魔王と戦い、敗北を喫した遠い過去。
全身全霊を賭けた戦いの後に迎えた、屈辱的な結末。
天界の総意として大魔王の排除を諦め、一時的な共存を決断したあの日。彼女の胸の内では何かが燃え続けていた。
どうしてだろうか。
彼女は敗北したことが悔しくて仕方なかった。
これまでの長い生で感じたことのない、奇妙で新鮮な感情。完成された存在と呼ばれる天使にとって、進歩や成長を求めることすら異質なことだというのに。
再戦を望み上位の天使に幾度となく要請するも、それが受け入れられることはなかった。
もちろん、それが正しい判断だということくらい、同じ天使として彼女にも分かっている。
それでもどこか納得いかない気持ちのまま、天使は修練を続けることにした。
幾千、幾万の日々を鍛錬に費やし、完成された体に変化を与えようとする。
他の天使たちから「変わり者」と距離を置かれても、彼女はそれを気に留めることすらなかった。
その胸中はただ一人、大魔王だけに占められていたからだ。
あの圧倒的な存在への憧れと、敗北への悔しさ。それだけを糧に、彼女は孤独な鍛錬の日々を重ねていった。
「――――!」
そんなある日、突如として世界中のありとあらゆる場所に眩い光が降り注いだ。
混乱する天界の中、彼女の視界に映るのは異変の中心地――大魔王が作り出したとされるダンジョンの数々。
それら全てが、光に包まれ変容していた。
いったい何が起きているのか、誰にも理解できない。
混乱する仲間たちの声も届かぬほど、彼女の心は激しく揺れ動いていた。
その光の中に、あの存在の痕跡を感じたからだ。
彼女はためらうことなく、直感に従うままその光の中に飛び込んだ。
そして光に呑まれた瞬間、彼女の意識は闇に落ち、それからしばらく長い眠りにつくこととなった。
どれだけの年月が過ぎただろうか。
(……気配感知。是は……)
いきなり感じた大魔王の気配に、天使は眠りから目を覚ました。
何もない闇の中にいた彼女だが、目覚めと同時に周囲の空間が変容していくのを感じる。それに伴って、自分を中心に何かが生成されるのが分かった。
この現象は知っている、ダンジョンだ。
自分の目覚めと共にダンジョンが生み出されたということだけが理解できた。
彼女の天力が核となり、周囲の空間を再構築しているのだ。
そのダンジョンが生成する直前、その余波によってさらに一つのダンジョンが生み出される。しかしそれは瞬く間に消滅した。誰かが攻略してしまったのだろう。
そしてそれから間もなく、天使を中心としたダンジョンがようやく生成を終えた。
自分の身に何が起こっているのかなど理解できない。長い眠りのせいで、思考はまだ完全には機能していない。
しかし目覚めた際に感じた大魔王の気配――それだけは鮮明に認識していた。
もう一度彼と戦うこと。天使はただ、それだけを考えていた。
(状態、不完全……けれど、天力は十分)
長きにわたる眠りの影響か、体の状態は最良とは言えない。
その理由の一つとして、二つのダンジョンが彼女の天力を基に生み出されたことが影響していると判断する。自らの力の一部がダンジョンの生成に使われたのだ。
逆に言えば、このダンジョンには彼女の力が満ちていることになる。これさえ使えば自身が全盛の力を取り戻すことは可能だろう。
そう考えた彼女は、自分の前に現れた冒険者たちが望む相手ではなかったため落胆しつつ戦いながら、傍らで大魔王の気配を探し続け――ついに見つけた。
大魔王の気配。
彼女が知っているものとは異なり弱々しかったけれど、まず間違いない。
あの存在だ。
【座標転移】によって大魔王を召喚した後、ダンジョン全体に満ちた天力を使用して【天景再現】を発動。
これを以て彼女は異世界の環境、自身の最高の状態――そして、最後に自分が戦ったかつての大魔王の姿を再現した。
他者にこの力を適用することは並大抵のことではない。
しかし天使はあの敗北以来、一時も忘れることなく大魔王の姿を思い続けてきた。その執念とも言うべき記憶が、不可能を可能にしたのだ。
大量の天力を直接注ぎ込む必要はあったとはいえ、天使は見事にそれを成し遂げてみせた。
天使が戦いたかったのは、他でもない最強の大魔王。
弱体化した相手に勝利しても意味がなかった。この一戦にかけてきた幾千年の時を無駄にするわけにはいかない。
そんな彼女の願いに応じるように、大魔王は全力を尽くして応じてくれた。
遥かなる年月の鍛錬の全てを出し尽くし――それでも、敵わなかった。
この漆黒の魔力は自分を消滅させるに十分たる力を含んでいる。
他の天使たちと異なり、死自体は怖くない。
彼女が恐れるのは、もう二度と大魔王と戦えなくなるという事実だけであり――
「……それが目的だったんだな」
「…………?」
天使が死を覚悟した瞬間、突如としてそんな声が響き渡った。
死後の世界にでも辿り着いたのかと思った直後、自分を覆っていた魔力が霧散していく。
漆黒の光が徐々に薄れていくと、そこには既に大魔王の姿から元の脆弱な姿に戻った人間――神蔵 蓮夜の姿があった。




