飼い猫モンブランの魔法
一回目、たいして気にも留めなかった。
夜の十一時過ぎ、仕事を終えて夕飯を外食ですませた帰り道。駅から自分の住むマンションへと続く細い道の途中で、不信な挙動をしている人影が目に入った。民家からもれる明かりと手に持った懐中電灯の灯りを頼りに塀の上や電柱の物陰を黙々とのぞき込んでいるその人物は、何かを捜しているらしい。
不審ではあったが背格好からしてそれはおそらく女性であり、通報するほど脅威にも思えなかったので、翔太はその人影を無視してさっさと自分のマンションへと歩いていった。
戦前から続く巨大な舘石グループ。そのグループの中核を成す舘石商事の現社長の一人息子が、舘石翔太だ。
社会人になって五年目。ベテランではないが新人でもなく、ある程度困難な案件もなるべく自発的に処理することを求められる中堅どころである。
そんな翔太の仕事は今日もトラブルが続き、帰宅が遅くなってしまった。最後に定時で帰れたのはいつだったか、思い出せないほど昔だ。
自宅と会社を往復するだけの平均的な平社員の立場にいる翔太だが、実家の両親、特に父親からは、早く役職に就くように求められている。それがこの舘石家に生まれたさだめだと理解しているし受け入れてもいるが、今はまだ、この繰り返されるだけの平凡な毎日の中で見えるものを吸収したいと翔太は思っていた。
重く疲れた足取りでマンションのエントランスホールに入る。夜でも防犯のために煌々とつけられている天井のライトが眩しく、疲労困憊の目にはややつらい。翔太は郵便受けの中をのぞき込んで何もないことを確認してから、オートロックに向かった。
「ニャァ」
すると、マンションの中には似つかわしくない鳴き声が聞こえた。
オートロックに鍵を差し込もうとしていた手を止め、翔太は足元を見やる。すると、大きな目をぐりんと開いた一匹の猫が翔太を見上げていた。
「ニャァ。ニャァ、ニャアァー」
猫は人馴れしているのか、甘えるように翔太の足に頬をすり寄せる。
――舘石くぅ~ん。
その姿は、かつて翔太にすり寄り、「舘石グループの御曹司」と親密な関係になってなんでもいいから良い思いをしたいと媚びを売ってきた浅ましい女性たちを彷彿とさせた。高校生の頃からその手の危険信号に敏い翔太は、そうした女性たちをうまくかわしてこれまでトラブルになったことはない。しかし下心を隠しきれない女性からしつこくからまれた経験は何度もあり、思わず彼女らを思い出してしまったので、猫とはいえ一方的に馴れ馴れしくふれてくる存在は、疲労で気の短くなっていた翔太の中の苛立ちを一瞬で沸騰させた。
「離れろ」
猫相手に、随分と怖い声が出てしまう。
「ニャァ」
しかし、猫はめげずに甘えた声を出す。それもしっかりと翔太を見上げ、その視線をからませながらだ。
「はあ……お前、猫でよかったな」
これが本当に人間の女性だったら、離れろの一言で終わらせることができなかったかもしれない。
翔太は観念したようにため息をつくと、止めていた手をオートロックに伸ばし、鍵を差し込んでセキュリティを解除した。そして、足早にエレベーターへと歩き出す。猫は嬉しそうに鳴きながら、翔太の足元にぴったりとくっついてエレベーターに一緒に乗り込んだ。
そして翔太が玄関のドアを開けるなり、猫はまるで我が家に帰ったかのようにダッシュでリビングを目指した。我が物顔でソファに飛び乗ると大きく背伸びをし、横に転がって気持ちよさそうに目を閉じる。ふさふさの長毛なので、瞳や鼻が見えなくなるとただの毛の塊に見えた。
(猫じゃなきゃ殴ってるな)
これがもし女性だったとしても、さすがに女性相手に手を出すようなことは本気ではしない。しかし、それぐらいの怒りを覚えたいほどの猫の図々しい態度に、翔太はさらに疲れが増したような気がした。
そんな猫を横目に寝室でスーツを脱ぐ。クロゼットの中からハンガーを取り出してスーツをかけ、クロゼットに戻す。そしてシャワーを浴びるために、着替えとタオルを用意する。ソファでうたた寝を始める猫には見向きもせずに、浴室へ向かう。
入浴が終わって洗面所で髪の毛を拭いていると、猫がまた足元にまとわりついてきた。今度は物欲しげに鳴いている。
「ニャァ、ニャァ~」
「とことん図々しい奴だな、お前」
「ニャアァ」
それほどでも、とでも言いたいのだろうか。決して褒めたわけではないのに、猫はなぜか自慢げに鳴いた。
毛並みが良く首輪も付けているので、野良猫ではなく飼い猫なのだろう。いったいどういう飼われ方をしたら、こんなふてぶてしい性格になるのだろうか。そう考えてから、翔太はその昔友人に言われた言葉を思い出した。
――お前さ、どういう育ち方をしたらそんなオレ様思考ができるわけ? お前の家とかお前の親が持ってるものは、お前が勝ち得たものじゃないだろ。自分のものじゃないものを、よくそんな風に自慢できるよな。
あれはまだ、思春期真っ盛りでなかなかに世の中を舐めていた頃のことだ。「舘石」ならばできないことはない、自分には力がある。そんな風に、自分の努力で得たわけではないものを幼くも自慢げに思っていた青臭い時期。そんな自分の思考が世間と乖離していること、そしてひどく幼稚であることを気付かせてくれた友人のその言葉は、人生で一、二を争う忠言だ。
「ほら」
洗面所からキッチンへ移動した翔太は、適当な平皿にペットボトルからミネラルウォータを注いでやり、猫の目の前に差し出した。猫は待ってましたと言わんばかりに、のんびりと舌をつける。
翔太はソファに腰掛けてテレビの電源を入れると、しばらくぼんやりとニュース番組を見る。しかし、ふと近付いてくる気配に目を細めた。
「ニャァ」
飲み終えて満足したのか、猫は遠慮なしに翔太の膝の上に乗って丸くなった。本当に図々しい。そう思いつつも、翔太は猫の背をなでた。整えられた長毛の毛並みは、思いのほか気持ちいい。猫もなでられて気持ちがいいのか、目を閉じて寝ようとする。
そんな猫を起こすように、翔太は猫の首輪をいじりだした。
「ニャー」
迷惑そうな猫の鳴き声。
しかし翔太は構わない。首輪を少し回すと、目当ての文字を見つけた。
『モンブラン』
それが猫の名前だろうか。
試しに翔太は呼んでみた。
「モンブラン」
「ニャァー」
「お前、モンブランっていうのか」
「ニャアァ」
そうですとも。そう誇らしげに頷いているようだった。
名前がわかったのはいい。けれど名前以外の文字が見当たらないことに、翔太は気落ちした。電話番号でも書いていてくれればいいものを。これでは、この猫の飼い主に連絡ができないではないか。
(猫が逃げるとは想定していなかったのか)
翔太はたいして猫に詳しくないが、猫というのは隙あらば脱走するような動物ではないのだろうか。せめて電話番号ぐらいは書いておくべきだろうと、翔太はモンブランの飼い主に嘆息する。
飼い猫のモンブラン。今はただの居候猫。さて、どうしたものか。
考えようとしたが眠気が襲ってきたので、翔太はモンブランに構わず寝室に向かい、電気を消すとさっさと寝入ってしまった。一緒に寝たいのか、モンブランがやはり図々しくも布団の中に入ってきたので、翔太は仕方なく、ぬくい毛の塊と共に夢の中をたゆたうのだった。
◆◇◆◇◆
二回目、少しだけ気になった。
翔太と居候猫モンブランの共同生活は、それからしばらく続いた。
最初はふてぶてしく、また図々しく、自分のような猫だと思っていたモンブランだが、数日一緒に過ごしているうちに、かなりおっとりとした猫であることに気付いた。図々しいところは図々しいのだが、猫の中でも相当のんびりした性格なのではないかと思うほどだ。水を飲むのも、翔太がしぶしぶ買ってきたキャットフードを食べるのも、やけに遅い。歩くのも遅いし、走るモンブランを見かけたのは、最初の夜に玄関からリビングへダッシュした時ぐらいだろう。
一体全体、どういう飼われ方をしていたのか再度疑問に思う。それとも、これはモンブランの天性の性格か、あるいはかなり老いているのかもしれない。
そんな取り留めのないことを考えながら、モンブランの背をなでる日々が続く。その日々は、ただ仕事に行って帰ってくるだけの翔太にとって、しばらくぶりに感じる癒しの時間であった。
そんな日々が続いていたある金曜日の夜。その日も仕事が遅くなり、翔太は日付変更時間近くにマンションへの道を歩いていた。すると、モンブランが家に上がり込んできた日と同様に、懐中電灯を手に持ってあちこちをうろつく人影を見つけた。さすがに二回目ともなれば多少は気になり、何者なのかと、翔太はその人影をしばらく観察する。不審者ならば、今度は警察に連絡を入れようと思った。
暗闇の中、懐中電灯を左右に向け、何かを捜す人影。その影が電灯の下に来た時、それが思っていたよりも若い女性であることがわかった。
財布でも落としたのだろか、女性はただ黙々と何かを捜している。電灯が照らすその横顔はとても頼りなく、今にも泣き出しそうな表情だった。
声をかけるべきか、翔太は迷った。こんな夜遅くに、若い女性が捜し物など非常識もいいところである。昼間に捜せばよいではないか。懐中電灯まで用意して、そんなに大切なものなのか。次から次へと疑問が浮かぶ。しかし疲れている足は思考とは逆に、なんの迷いもなくマンションに向かっていた。
たいしたことではないはずだ。そう自分に言い聞かせて、部屋の電気をつける。すると、いつもならまったりとくつろいでいるはずのモンブランが、やけにせわしなく鳴いていた。
「ニャアァ……ニャァ……ニャーニャー」
「なんだよ、飯ならちょっと待て」
「ニャーニャー」
翔太の不機嫌な声にもめげず、モンブランは何かを訴えるように鳴く。耳障りだと少し苛立ちながら、翔太はキャットフードを皿にあける。
そういえば、家に招いた日から一度も外に出していない。もしかしたらモンブランは外に出たいのかもしれない。ちょうど明日は休みだし、このままモンブランを逃がすつもりで外に出すか。そもそも飼うつもりで家にあげたわけではないのだし、猫と一緒のこの奇妙な生活も潮時だ。
そんなことを考えながら翔太はシャワーを浴び、鳴き続けるモンブランを無視してベッドに倒れ込んだ。
◆◇◆◇◆
三回目、言葉を交わしたらあっという間に心を奪われた。
翌日、土曜日で仕事は休みなので、翔太はスーツではなく私服を着込むとスニーカーを履いた。そしてモンブランを呼ぶ。モンブランは一目散に翔太めがけて走ってきた。この猫が走るのを見るのはこれで二回目だ、とどうでもいいことを思いつつ、翔太は玄関のドアを開けた。来た時と同じように、モンブランはエレベーターの中でも翔太の足元にぴったりとくっついて離れなかった。
翔太とモンブランは、ほぼ同時にエントランスホールに出る。そして、暖かな日差しが注ぎ込むマンション前の道に出た。すると、翔太の視界に一人の女性の姿が映った。それは間違いなく、暗闇の中で懐中電灯を片手に何かを捜していたあの人物だ。明るいところでその姿を見るのは初めてである。
(なんだ、昼間も捜してたのか)
昨夜の疑問にひとつ答えが出る。
それにしても、いったい何を捜しているのだろうか。
翔太が考えていると、足元でモンブランが鳴いた。
「ニャー!」
なんだと思って見ると、モンブランは翔太になど目もくれず、捜索をしている女性めがけて猛ダッシュをしていったところだった。
「あっ……」
「ニャァ、ニャアァ」
「モンブランっ!」
翔太のわずか五メートルほど先で、女性は足元に駆け寄ってきた猫を抱き上げた。その表情は、真夜中の頼りなさそうに見えた表情とは違い、まるでヒマワリが咲いたように眩しい笑顔だった。
「よかった……よかったぁ」
「ニャアァ、ニャア~」
ああ、そうか。
モンブランは彼女の飼い猫で、彼女は最初のあの日からずっと、モンブランを捜していたのだ。そして昨夜モンブランが鳴き続けていたのは、飼い主である彼女が外にいることを知っていたからなのだ。
すべての事象が、ひとつにつながる。何もかもが理解できた翔太は、すっきりとした気分だった。モンブランを逃がすか、と軽く考えていたが、マンションを出た瞬間にモンブランは飼い主のもとへ戻ったので、これにて一件落着だ。自分はこのまま一人で本屋にでも行くか。
頭上の晴れ渡った空のように爽快な気分のまま、翔太は女性にもモンブランにも声をかけることなくその場を立ち去ろうとした。
「ニャー」
「あ、あのっ」
ところが、そんな翔太を引き止めるふたつの声があった。
翔太は少し億劫そうに振り返り、猫と女性を見つめる。無意識のうちに睨んでしまったのか、女性は一瞬びくりと肩を震わせたが、はっきりとした声で翔太に話しかけてきた。
「あの、あなたがこの子を?」
「ええ、まあ……。数日前に付いてきたので、しばらく家に置いていました」
「ニャア」
そのとおりです。と、モンブランは言っているようだ。
「ありがとうございます。ずっと捜してたんです」
「そうみたいですね」
猫は夜行性だから夜も行動すると思って、昼間だけでなく夜中にまで懐中電灯を片手に捜していたのだろう。彼女にとって、モンブランは大事な飼い猫なのだ。
これ以上関わることはないと思って立ち去ろうとしていたのに、やけに目の前の女性とモンブランについて推察している自分に、翔太は言葉にならない感覚を覚えた。
「この子、私の兄弟みたいな子で……いなくなってしまって本当に心配で……でも親切な人に保護していただいたようで、安心しました。お名前をお訊きしてもよろしいですか」
「舘石……舘石翔太といいます」
「舘石さんですね。本当にありがとうございました」
「ニャーア」
彼女はモンブランを抱いたまま、器用に頭を下げる。するとモンブランも主人を見習うように、お礼のような鳴き声を出した。頭を上げた彼女の微笑を、翔太はしばらく呆けたように見つめる。
「あの、何かお礼をさせてください」
翔太の視線に気付いた女性が、翔太を見つめ返した。曇りなく、純粋そうな瞳が翔太の冷たい瞳をとらえる。
「いや、いいですよ。たいしたことはしていないですし」
「でもこの子、図々しいところがあるからご迷惑をおかけしたんじゃないかと思うんです。ご飯代とか……その、舘石さんに要らない出費をさせてしまったかとも思いますし」
「ニャー」
そんなことないですよご主人様。モンブランはおっとりと鳴く。
それを聞いて翔太は苦笑した。
「そうですね、ずいぶん図々しい猫だとは思いました」
「やっぱり! こら、モンブラン」
「ニャー?」
「そうやって誤魔化さないの。舘石さんにいったいなんの迷惑をかけたの!」
「ニャァ」
女性はモンブランの言葉がわかり、そしてモンブランは女性の言葉をわかっているようだ。兄弟みたいだということが、他人事ながら頷ける。
「もう……。でも、私のために逃げてくれたのかな」
「どういうことですか」
女性の言葉が腑に落ちなかった翔太は、思わず訊き返していた。さっさとこの場を立ち去ろうかとすら考えていたのだが、自分でも不思議なことに、目の前の女性をもっと見ていたいと、彼女と言葉を交わしていたいと思う自分がいた。
「私事なんですが、今度お見合いをするんです」
「お見合い?」
「はい。父の仕事の取引先の息子さんと……父も私も、仕事の関係上断れなくて。でも、私は全然そういう気になれなくて」
「まだ結婚したくないからですか」
「そう……じゃないんです」
モンブランを抱え直し、女性は真剣な眼差しで言った。
「仕事とか親とか、そういうしがらみなんて関係なしに、好いた人と一生を添い遂げたい。それが理想なんです。だから、急なお見合いで将来を決めたくなくて」
女性は翔太よりやや若いだろう。それなのに、ずいぶんと大人びた落ち着きがある。真面目で誠実で、おしとやかだが自分の意思をしっかりと持っている。けれど、無理に我を通そうという意地の強さはないので、「父の仕事の取引先の息子」という、利害関係が明らかな相手をきっぱりと断れないようだ。
「そう悩んでいたら、モンブランがいなくなったんです。この子、本当に兄弟みたいに大事な子だから、私、とても気が動転しちゃって……。そしたら、それを知った先方が、この子が見つかるまでお見合いを伸ばしてくれたんです。それで、毎日必死にこの子を捜していたんですけど……」
「モンブランは無事に見つかった。それは良いことだけど、いよいよ見合いをしないといけない、ということですね」
「はい……。でも、モンブランを捜している間はモラトリアムが伸びました。それに、この子を捜している間に、それとなく決心もついたように思うんです。モンブランと一緒なら、きっと大丈夫だと思うから」
そう言うと、女性は目を伏せた。ヒマワリのような笑顔は、梅雨の空を思わせる湿った雲のように淀んでいた。
「あっ、でもその前に、舘石さんにお礼をしないと」
「ニャーニャー」
「そうだそうだ、じゃないの! 迷惑をかけたあなたは黙ってなさい、もうっ」
女性はモンブランのひたいをぐりぐりと雑になでる。
受け入れがたいと思いつつも自分の心の中を整理し、受け入れようとするいじらしさを持つ彼女。自身が本当に望むものとは相違している未来を受け入れる覚悟を彼女がしていることを、彼女の父親やその見合い相手は知っているのだろうか。そんな人生で、果たして彼女は幸せになれるのだろうか。そう考えると、翔太は胸の奥深くで何かがチクリと痛むのを感じた。
「あなたの名前は?」
「え、あっ、すみません。私は高田桜子といいます」
「桜子さん、不躾を承知で尋ねますが、お見合い相手だというその取引先というのはどちらの方ですか」
「え? 伊勢金融の専務の息子さんです。私の父は小さいながらも会社を経営していまして、伊勢金融さんは昔から融資していただいているんです」
「伊勢金融か、問題ないですね」
翔太はニヤりと口元を上げて笑うと、桜子に近付いた。モンブランを抱え、手の自由が利かない桜子の頭を手のひらでやさしくなでる。
「っ……舘石さん?」
「あなたの大切なその飼い猫に、ここ数日、ずいぶんと気を紛らわせてもらいました。お礼をするなら俺の方です。そんなわけで、その見合いには俺が一緒に行きます」
「えっ!? な、なんでですかっ!?」
「あなたはその相手との結婚を断りたい。それなら、俺を結婚する予定の男だと紹介して断ればいい。相手がいるんじゃ向こうも諦めるしかないでしょう。まあ、ちょっとした茶番です」
「で、でもっ……それじゃ舘石さんにご迷惑ですし! それに、相手がいるぐらいで先方が諦めるかどうかも」
「大丈夫、必ず諦めます。なにせ、相手はこの俺ですか」
「え?」
桜子は不思議そうな瞳で翔太を見上げた。
「舘石グループの御曹司が相手と聞けば、伊勢金融なんて退くしかないってことですよ」
「舘石……舘石って……え、あの舘石グループの!?」
「そういうことなので、お見合い前にもう少し親密になりませんか、桜子さん」
翔太は勝ち誇った笑みを浮かべ、そして桜子のひたいに小さなキスをひとつ落とす。
「ンニャァ~」
そんな二人の間で、モンブランが満足そうに鳴いた。
その後二人がどうなったかは、猫のみぞ知る――。
◆◇◆◇◆
「全部お前の狙い通りか?」
「ニャー?」
ソファに座る翔太は、まだ新しい写真を見ながら、自分の膝の上で丸くなる猫に問いかけた。その猫モンブランはあの時よりさらに老いたようで、最近は以前にも増しておっとりとしており、寝ている時間の方が多い。それも、こうして翔太の膝の上で。
「主人思いだな」
「ニャァ」
もちろんですとも。そう言っているのだろうか。近頃では自分までモンブランの言っていることがわかるようになってしまった気がする。
翔太が見ている写真の中では、純白のドレスを着たモンブランの飼い主が、白いタキシードを着た翔太の横で幸せそうにほほ笑んでいた。そしてその笑顔は、今も翔太の一番近くにある。
「翔太さん、ご飯ですよ」
「ああ、ありがとう」
「ニャアァ」
「お前じゃないよ」
「モンブランのご飯もありますよー。そう邪険にしないでください」
「ニャーア」
勝ち誇ったようなモンブランの鳴き声。その表情は心なしか、桜子のひたいに初めてのキスをしたあの日の翔太のように勝ち誇っていた。




