第五話
「ここで何をされているのですか?」
「エリオ……」
リシェルは慌てて立ち上がり、顔に笑みを貼り付けた。
先月六歳になったばかりの弟は、つられるようににこりと微笑み返してきた。
ああ、なんと癒されることか。
「エリオ、あなたこそどうしたの? 今はピアノのお稽古の時間でしょう?」
「たった今、終わりました。それでお茶にしようとここに」
そうしている間に、リシェルの父と義母が広間に入ってきた。
リシェルと義妹を見て何かを察したのか、義母がエリオに声をかける。
「お茶が入ったらすぐに呼ぶわ。それまで次の習い事の準備をしておきなさい」
「はあい」
弟は無邪気な笑顔のまま、広間から出て行った。
――よかった。今日も、あの子は元気だわ。
義母や義妹は、義理の息子であり義弟であるエリオのことは、とても丁寧に扱う。
彼がいずれ伯爵家当主となるからだろう。
そしてエリオは、リシェルが義母たちに虐げられていることに、まったく気付いていないようだった。
――でも、それでいいのだわ。
まだ幼いエリオに、よけいな不安事を与えたくはない。
「で、いったい何があったの? またソフィアが何かしたのね?」
義母は冷ややかな眼差しをリシェルに向けてきた。
彼女は、もとはこの家の使用人。
父に身分違いの再婚を決意させるだけあって、とても美しい容姿をしている。
「聞いて、お母様。買い物を頼んだのに、ソフィアったらまったく違うものを買ってきたのよ。きっとわたくしに対する嫌がらせだわ」
「まあ、またなの?」
「一昨日も、その前もそうだったわ。見て。このようなものを、このわたくしに使えというの」
義妹はリシェルの腕の中にある品々を奪い取ると、義母に手渡した。
「あらあら、なんて粗末な品」
それのひとつ――花のかたちの石鹸を手に取った義母は、それをリシェルに投げつけてきた。
「いたっ……」
よけきれず、こめかみに当たった。
「これも、これも……すべて処分しておきなさい」
リシェルの頬に、肩に、胸に、リボンやハンカチ、靴を磨くためのブラシがぶつけられる。
「つまらない女の顔を見て、気分が悪くなったわ。べつの場所でお茶にしましょう」
「ええ、そうね、お母様」
義母と義妹は笑い合いながら、広間を出て行った。
「ええと、リシェル……その、大丈夫かい?」
声をかけてきたのは父だ。
少しは気の毒に思っているのだろうか。こちらを気にしながら、落ち着かない様子で灰色の髪や髭をなでている。
するとすぐに義妹が戻ってきた。
「お父様、今、この子のことをなんと呼んだの!? リシェルはこのわたくしでしょう!」
「え? ああ、うん、そうか……そうだったな」
父は罰が悪そうに背を丸め、そそくさと広間から出て行った。
――お父さま……やはりまったく頼りにならないのね。
「そうだわ、ソフィア。明日もう一度、街へ行ってちょうだい。今度は間違えずに、わたくしが指定したものをちゃんと買ってくるのよ?」
義妹がリシェルを街に行かせるのには、理由がある。
ソフィアを名乗って街に行けば、人々にあれこれ噂され、後ろ指をさされることを知っているからだ。
そもそも今日、街人たちが噂していたことは、ほぼ事実。
伯爵家に入った義妹が、リシェルを名乗るまでの間に働いてきた悪行の数々だ。
おかげでソフィア・クローデッド、イコール悪女という認識は、王都中の人々の脳裏に植え付けられてしまっている。
その上で入れ替わりを強制されたのだから、リシェルにとってはかなりつらい状況だ。
――わたしが街で嫌な思いをすることを、楽しんでいるんだわ。
まったくもって趣味が悪い。
けれど行かないという選択肢は与えられていない。
溜息を吐きつつ、リシェルはうなずいた。
「……わかりました。明日もう一度、行ってまいります」
「今度失敗したら、何をしてもらおうかしら。……そうね、あなたにはいっそわたくし付きの使用人として働いてもらって――」
その時だった。
ここクローデッド家に、電撃的な報せが届いたのだ。
「たいへんだわ……! ソフィア――じゃなくてリシェル、早く身支度を整えなさい……! 持っている中で一番、高級なドレスを着るのよ!」
叫びながら、義母が広間に飛び込んできた。
続いて父が、珍しく焦った様子で、あたりをうろうろし始める。
「客人を迎える準備を……ああ、この広間も整えなければ……」
「お母様、何事!? どうなさったの!?」
「先触れが来たのよ! 今日、これからリシェルを訪ねたいって」
「どなたから?」
もしや、と思った。
かつてない彼等の慌てぶりを目にして、それの他にないのではないかと確信した。
「――星」
リシェルの口から、自然とその単語がこぼれ落ちた。
「イルデブラン家の、レオーネ様ね?」
すると義妹があんぐりと口を開けた。
「お、お母様……! あの方がここにいらっしゃるの!?」
「ええ、そうよ! だから早く支度を……!」
ああ、やはりそうだ。
先日、留学を終えて帰国したあの方が――この国の『星』として唯一無二の存在であるあの方が、ここクローデッド家にやってくるのだ。
それは宿命であるリシェルとの結婚の約束を叶えるために、ほからなかった。