第三話
「ああ、起きたかい?」
次にリシェルが目を覚ました時、視界にはオセアノの姿があった。
「なかなか目を覚まさないから、焦ったよ。きっと薬が効きすぎたんだ」
「オセアノ様……! なぜこのようなこと……えっ」
勢いよく身を起こしたリシェルだったが、激しい目眩に襲われ、すぐに倒れ込んだ。
まだ薬の影響が残っているのだろうか。身体に力が入らない。
それどころか両腕を身体の前で縛られていて、思い通りに動くことができなかった。
——ほんとうに、なぜこのようなことをするの。
戸惑いや悲しみ、さまざまな感情がないまぜになって、リシェルは横たわったまま唇を噛んだ。
「ごめんよ、リシェル。君にこのようなことしたくはなかったんだけれど、暴れられると困るから」
周囲を見回してみれば、目に映るのは天蓋の付いた豪奢なベッドに、白い壁紙、濃紺のカーテン。
どうやらリシェルは、どこかの部屋のベッドの上に寝かされているようだった。
「ここはどこですか?」
あきらかに知らない場所だ。
「ここは僕と君、二人の新居にしようと用意した家だよ」
「二人の……新居?」
リシェルは眉をひそめる。
「王都の外れにある一軒家なんだ。ここで君と新婚生活を送ろうと思ってね」
——オセアノ様……いったい何を言っているの?
のんびり横になってなどいられないと、リシェルは目眩に襲われながらも身を起こした。
ベッドに腰掛けるオセアノを、まっすぐ見る。
「……オセアノ様は、わたしのことを好いてくださっているのですか?」
意を決して問うと。
「気付いていなかったのかい?」
逆に問い返された。
「……知りませんでした。まったく」
「まあ、たしかに、それに気付くような余裕が君にはなかったよね。ソフィアたちに虐げられて、伯爵家を守ることに精一杯で……しかも心の奥底には、星であるイルデブラン隊長への淡い恋心もあったことだし?」
オセアノは自嘲気味に笑った。
「ずっと好きだったんだ。それこそ十年前? 十一年前? ……君に出会った当初から」
でも、と彼は続ける。
「君はすでに星の花嫁と決まっていたから。想いを告げるつもりはなかったんだよ」
「ではなぜ今になってこのようなことをなされるのですか」
「わからない? ソフィアとリシェルが入れ替わったからさ。ソフィアが星の花嫁となるなら、君はもう何者でもない。ならば君をあきらめる必要などないだろう?」
「ですが、わたしはリシェルです……!」
「嬉しかったよ。入れ替わった妹が、姉のふり——星の花嫁のふりをして、星と会ったと知った時は。つまり伯爵家はその嘘を貫き通すと決めた。ならばなんとしてでも君を手に入れようと、僕の心も決まったんだ」
その時、ふと疑念が生まれた。
「まさか、あの子にわたしのことを教えたのは……」
「ああ、気付いてしまった?」
オセアノは悪戯が成功した子供のように、目を輝かせた。
「そう、僕だよ。イルデブラン隊長が伯爵家を訪れた日に、君が彼の馬車に乗って帰ってきたことを、ソフィアに教えたのは。それに行商に売られたはずの君が、特殊部隊に入団したこともね」
「今夜の、夜会のことも……?」
「もちろん!」
オセアノは満面の笑みを浮かべた。
「すぐに彼女に報告したさ」
「ひどい……」
リシェルは激しい虚無感に襲われた。
義母と義妹に虐げられてきたリシェルにとって、オセアノは真実を知る味方であり、癒しでもあった。
会えば必ず、優しい言葉をかけてくれた彼。
いつだってリシェルのことを気遣ってくれていたのに、まさか、嘘を吐かれていたなんて。
「だってそうしなければ君は僕のものにはならないんだから、しかたがないだろう? よかったよ、君が隊長にすべてを明かす前で。きっと神は僕に味方してくれたんだね」
「——わたしを、自由にしてください」
口から出た声は、自分でも驚くほど低いものだった。
「お願い、ここから出して。わたしは今すぐ戻りたいのです」
リシェルのことを待ってくれているだろうあの人のもとへ。
今宵、真実を明かすために。
けれどオセアノは、笑みを崩さぬまま首を横に振った。
燭台の火に照らされ、彼の金色の髪がきらきら光る。
「リシェル、特殊部隊にもう君の居場所はないよ。僕は明日、君の辞表を騎士団に提出するつもりだ」
「なんの権限があってそのようなことをされるのです」
「夫の権限、とでも言おうか」
「まさか本当にわたしと結婚するつもりでいるのですか?」
「さっき言ったじゃないか。ここで君と新婚生活をおくるって」
「わたしは了承しておりません」
そもそも同意のない結婚が成立するわけがないのだ。
「そうだ、君にいいものを見せよう。……これがなんだかわかるかい?」
オセアノはうきうきした様子で、サイドボードの引き出しから、一枚の紙を取り出した。
「ほら、よく見てごらん」
目をこらして見れば、それは結婚誓約書だった。
夫の欄にはオセアノの名と、彼の家——グラート家の印が。そして妻の欄にはソフィアの名と、リシェルの家——クローデッド家の印が押されている。
「ちなみにここに書いてあるソフィアは、君のことだからね」
「どういうことですか?」
「君の父上が代筆の上に押印されたんだ。つまりクローデッド伯爵がお認めになったんだよ。僕と君との結婚を」
「嘘よ! いくらなんでもそのようなことを勝手に……勝手にするわけが……!」
ない、と言い切りたかったが、いやありえるだろう、と内心で思ってしまっていた。
——お父さま……! まさかここまでされるなんて……!
なんてことだろう。ここにきて、またしても父に裏切られてしまったのだ。
それはあまりに衝撃的で、リシェルは絶望に身を震わせた。
「これを教会に提出した時点で、僕と君は夫婦であると認められる。ねえリシェル。かわいそうだけれど、君の意志なんて、もう必要ないところまできているんだよ」
立ち上がったオセアノは、ベルを鳴らして使用人を呼んだ。
「これをただちに近くの教会に。大切な書類だ、絶対に無くすなよ」
「承知いたしました」
使用人の男性は書類の入った封筒を胸に抱えると、さっそく部屋から出て行った。
「待って……!」
リシェルは叫んだ。
「お願い、行かないで!」
けれど使用人の彼が戻ってくることはなかった。
「お願いです、オセアノ様。一度、落ち着いてお話ししましょう……! ひとまず結婚誓約書はここに戻していただいて——」
「いや、そろそろ提出しないとまずい。君はだいぶ眠っていたからね。君の不在に気付いたイルデブラン隊長が、あとを追ってくるかもしれない」
「え……」
「まあ、ここを見つけることは不可能だと思うけれど」
くすくす笑いながら、オセアノはリシェルの髪のひとふさを手にとった。
「君はもう、逃げられない。……僕からは、絶対にね」
目の前を真っ黒に塗りつぶされたような心地になって、リシェルはとうとう涙をこぼした。