第一話
リシェルが王立騎士団特殊部隊で働き始めてから、半月以上が過ぎた。
勤務時間中は、レオーネの執務室で文献の翻訳の仕事を。
そして夜には、広間でレオーネから講義を受けるという生活が続いていた。
仕事中、多忙な彼とはあまり顔を合わせなかったが、夜には魔に関するあれこれを丁寧にリシェルに話して聞かせてくれた。
時に二人でソファで眠ってしまったり、あるいはうたた寝をしてしまったリシェルを彼のベッドに運んでくれたり。レオーネはいつだって優しかった。
だからリシェルは、いけないと思いつつも、やはり彼に対して好意を抱き始めてしまったのだ。
一方でリシェルは、迷い始めていた。
星の花嫁でありながら、義妹のソフィアのふりをしている自分。
伯爵家を守るためには——母の遺言を守るためには、自分はソフィアで居続けなければならない。
けれど、本当にこのままでいいのだろうか?
この国における星とその花嫁の祝福の重要性は?
レオーネの講義を受けるたびに、魔の危険性や花嫁である自分の役割を深く知ったリシェルは、この先どうしていけばよいのか、頭を悩ませていた。
「剣術の訓練に参加しないか?」
レオーネから誘われたのは、勤務十日目の午後のことだった。
「長らく机に向かっているから、気も滅入るだろう」
心配されているのだと、すぐに気がついた。
ここ数日、あれこれ考えていたリシェルは、元気が無かったのかもしれない。
——だめね、落ち込んでいるのを気付かれてしまうなんて……。
「ありがとうございます。ぜひ参加させてください」
リシェルは意識的ににこやかに微笑んだ。
特殊部隊の剣術の訓練は、専用の演習場で行われていた。
レオーネに連れられ、その場に足を踏み入れたリシェルは、思わず「わあ……」と声を漏らす。
二人ひと組で行われている訓練。
隊員たちは各々の手に鈍色に光る剣を持ち、真剣な眼差しで手合わせをしていた。
そこかしこで響く剣戟がぶつかり合う音。
その迫力に、気付けば圧倒されてしまう。
「おっと、あんたも参加するのか」
やってきたのはロッソだ。
彼は特定の誰かとは手を合わせず、隊員たちの様子を見ながら指導をしていたようだった。
「じゃあ俺が稽古をつけてやる」
ロッソは悪戯っ子のようににやにやしながら、リシェルに剣を渡してきた。
「おい、ロッソ。わかっているだろうな?」
ぎろりと睨むレオーネに、ロッソはこともなげに笑う。
「もちろんだって。心配するな」
「万が一があったら、おまえを殺るぞ」
「大丈夫だって。傷ひとつ付けねえよ」
おまえの大切な花にな。
ロッソがそう言ったように聞こえて、リシェルはどきりとした。
レオーネはリシェルの背後に立つなり、両腕を前に回してきた。
「模造刀だからこわがる必要はない。こうやって構えて」
指導とはいえ、まるで抱きしめられるような格好になって、リシェルは慌てふためく。
「わたし、幼い頃に剣術を習っていて……日常的にたまに剣を振っていたので、問題ないかと……!」
言ってから、はっとした。
義妹と入れ替わっている自分がそのような習い事をしていたと知れば、おかしく思われてしまうだろうか。
ソフィアは伯爵家に入るまでは、ごく普通の一般人だったのに。
「そうか、ならばやってみろ」
とくに引っかかりを覚えなかったのか、レオーネはリシェルとロッソが向かい合う、ちょうど真ん中に立った。
「よし、じゃあ軽くやってみるか」
「お願いいたします」
剣を握るのは久しぶりだった。
かまえると、自然と身が引き締まる。
この瞬間が好きで、剣術を習う必要が無くなっても、リシェルは時折、剣を振っていた。
「いいぜ、打ってこい」
「はい」
ためらわずに打ち込んだ。
「おっ、いいぞ」
一歩を踏み込みながら、左側の上段に。返す動作で右の中段、そして腰をはらうように攻撃する。
「って、あんた、なかなかいい筋してるな——っと」
ロッソは一歩、後退した。
——逃がさないわ。
その時にはもう、リシェルの戦闘スイッチが入ってしまっていた。
「——まいります」
さらに二歩、三歩と踏み込み、彼の太ももあたりを狙う。
ひらりと避けられたが、もう一歩踏み込んでそのまま左上段から斜めに剣を振った。
「って、ちょっと待て、一度、体勢を整えさせろ——うおっ」
右足を軸にして向きを変え、離れようとするロッソとの距離を詰める。
「いや、これ俺、まずくねえ!?」
「——そこまでだ。一度、引け」
模造刀の剣先を、黒い手袋をはめた手——レオーネにつかまれた。
「あ……」
ようやく我に返ったリシェルは、飛び上がるようにして後ろに下がった。
「申し訳ございません……! 久しぶりだったので、つい夢中になってしまって!」
ふと気付けば、演習場に響いていた剣戟の音が止んでいた。
隊員たちは驚きの眼差しをリシェルに向けている。
「って、ものすごく早くなかったか? 今の動き……」
「手出しをしなかったとはいえ、ロッソ副隊長をあれだけ下がらせたぞ」
「何者だ、あの娘……」
小声で話されれば、びくりと身がすくんだ。
ソフィアとして街に出向いた時、街人たちにあれこれ噂話をされた時のことを思い出したのだ。
「って、あんた、剣を握ると目の色変わるタイプかよ」
呆れ顔のロッソが、レオーネの隣に並んだ。
「習っていたと言ったが、何年くらい剣術を?」
レオーネに問われて、リシェルはばつが悪くなる。
「五年ほど、わりとしっかりと……最近は、ほとんど手に取ることはなかったのですが」
どうか不審に思わないでほしかった。
「レオーネ、これ、対魔用の剣を握らせれば、普通にいけるぞ? ——なあ?」
ロッソが隊員たちに応えを求めれば、彼等はいまだ驚いた顔でこくこくと首を縦に振った。
けれどその中でオセアノだけは、当然だ、と言わんばかりに微笑んでいた。
幼馴染みである彼とは何度も剣の稽古を共にしてきたため、リシェルの実力を知っているのだ。
「イルデブラン隊長! 騎士団長がお呼びです!」
その時、他の隊の青年が、叫びながらこちらに駆けてきた。
「至急の用件だそうで!」
「至急? ——ロッソ」
「了解」
途端にレオーネとロッソの雰囲気が激変する。
彼等は隊服の裾を翻し、全速力で走り出した。
「コルテーゼは執務室に戻るように!」
「あ……はい!」
命じられ、その通りに動こうとしたリシェルだったが、すぐにオセアノに呼び止められた。
「オセアノ様? どうかなされましたか?」
彼はリシェルの耳元で囁く。
「リシェル……大変なことが起きた。残念だが、君がここにいることを、ソフィアが知ってしまったようだ」
「え……」
その瞬間、頭から冷や水をかぶせられたような心地になった。
義妹の高らかな笑い声が、耳の奥に響き渡る。
——そんな……なぜ。
義妹に激しく罵倒された日々。そして義母に殴りつけられた記憶がよみがえり、気付けば全身に冷や汗をかいていた。
「それは……間違いのないことなのですね?」
「ああ。呼び出され、彼女の口から直接聞いたんだ」
「そうですか……すでに、ソフィアが知って……」
「とりあえず落ち着いて。あとで詳しく話しにいくから」
今、自分が立つ地面がたちまち崩れ落ちていくような錯覚に襲われた。
リシェルはこわくなって——とても、とてもこわくなって、うまく息ができなくなったのだ。




