第三話 レオーネ視点
——眠ってしまったか。
魔についての講義中。
自分の肩に頭をもたげ、寝息を立て始めたリシェルのことを、レオーネは愛おしく見つめていた。
——慣れない環境で、疲れているんだろうな。
まだ勤務二日目だ。
大量の翻訳仕事もあり、心身共に疲弊しているのだろう。
話の途中にうとうとし始めたのには気付いていたが、まさかそのまま眠ってしまうとは驚きだった。
——気持ちよさそうだな。
はらりと落ちてきた髪を彼女の耳にかけてやれば、「ん……」と反応するものだから、ついどきりとする。
しかし、いったいなんなんだ、この可愛らしい存在は。
レオーネはリシェルを自分の膝の上にのせると、そっと抱きしめた。
小さな頭に、柔らかな肢体。
花の香りがする艶やかな髪や、すぐに壊れてしまいそうな華奢な肩など、あまりに自分と違いすぎてびっくりする。
——このまま、口づけしてしまいたい。
気付けば彼女の吐息が自身の唇にかかるほどまで、距離を詰めてしまっていた。
けれど、すぐに正気を取り戻す。
寝ている彼女にこのような真似をするのは、卑怯だ。
彼女にキスをする時は、彼女がレオーネの想いを受け入れてくれた時。
その時こそ彼女が溺れるくらいに何度もキスをしようと、そう決めていた。
——だが、これくらいなら許してくれるだろうか……。
レオーネは彼女の首もとにそっと唇を寄せた。
「ん……」
眠りが浅いのだろうか、びくりと身を震わすその反応が、さらにレオーネに火を付ける。
もう少し——あと少しだけ。
細い首筋を味わうように幾度もキスをし、ふたたび彼女を抱きしめる。
ああ、早く——一秒でも早く、彼女を自分のものにしたい。
「レオーネ、起きてるか?」
広間の扉が静かにノックされた。
ロッソだ。
「少し待て」
命じて、レオーネは彼女を抱き上げる。
この寝顔を、自分以外の男に見せるわけにはいかない。
レオーネは自身の部屋のベッドに彼女を横たえ、ブランケットをかけた。
彼女の部屋には決して立ち入らないと約束していたからだ。
「どうした」
扉を開ければ、すぐにロッソが広間の中に入ってきた。
「報告書。上がってきたぞ」
受け取って、ソファに腰を下ろす。
それに目を通している間、ロッソは腕を組み、壁に寄りかかっていた。
「……花の香りがするな。今までここにいたのか」
彼女のことを指しているのだと、すぐにわかった。
「いい香りだ」
「嗅ぐな。俺のだ」
「って、ただの香りじゃねえか!」
「それでも不愉快だ」
「いや、俺、息しねえと死ぬぞ?」
呆れたように、ロッソは肩をすくめる。
ひとしきり目を通して、レオーネは報告書を閉じた。
「そうか……やはり彼女と義妹は入れ替わっていたか」
そうとわかっていたことだが、それが確実なものとなった。
「証言したのは以前、伯爵家に務めていた使用人たちだが、なかなか口を割らなかったらしいぜ。なんでもクローデッド家を解雇されたあとも、口止め料としてかなりの金額が支払われ続けているらしい」
「黙っているだけで定期的に金が入るのなら、秘密は守られ続ける、か」
「あの伯爵夫人、金の使い方をよく知ってやがる」
ロッソは嘲るように笑う。
「って言っても、イルデブラン家がそれ以上に金を出したら、あっさり吐いたらしいがな」
「それで真実が手に入るのなら安いものだ。——保管しておいてくれ」
レオーネは報告書をロッソに戻した。
「で、どうする?」
「二十日後、伯爵家を訪ねる予定がある」
「ああ、そういえばあの時に約束してたな」
ロッソの言うあの時とは、初めてクローデッド家を訪ねた時のことだ。
再会したリシェルが義妹であると知らなかったレオーネは、次に会う約束を彼女と交わしていた。
「その時にすべてを正す」
リシェルと義妹が入れ替わっているなら、元通りに。
自分が恋した——いや、今も恋し続けている婚約者は、やはり彼女その人なのだから。
「だが、伯爵家はどうする? この入れ替わりが明らかになれば、とんでもない騒ぎになる」
だからこそ彼女は、黙って義妹のふりをしていたのだろう。
おそらくは伯爵家を守りたい一心で。
「伯爵家は存続させるつもりだ。が、リシェルを虐げた奴らは許さない。彼女は弟以外の家族と折り合いが悪いと言っていた。ならば……」
クローデッド伯爵当人にも、罪を認めさせ、それを償わせるべきだろう。
レオーネは拳をきつく握りしめた。
「やりようはいくらでもある」
「こわいねぇ。氷の星様の本領発揮、といったところか」
おどけるように言って、ロッソは部屋から去っていった。
「リシェル……」
自室に入ったレオーネは、眠る彼女に向けて、ようやくその名で呼びかけた。
そうに違いないと信じていた。
そして、やはりそうだった。
「リシェル……会いたかった」
八年ぶりの再会だ。
彼女はレオーネのことを覚えていてくれただろうか?
自分と同じとまでは言わなくとも、少しはレオーネのことを気にしてくれていただろうか?
髪を撫で、頬にふれ、あらわになった額に口づけを落とす。
——もう少しだ。
思わぬ回り道をしてしまったが、じきにレオーネとリシェルとして、あらためて再会できる。
その時には星と花嫁としてではなく、彼女に恋するひとりの男として、彼女に求婚すると決めていた。
「リシェル……どうか俺を受け入れて」
好きなのだ、もうどうしようもなく。
八年前のあの時から不思議なほどに、レオーネの心はリシェルにとらわれ続けていた。