第二話
「えっ……今からですか!?」
「そうだ。広間に出てきてくれ」
「で、でもわたし、もう部屋着に着替えてしまっていて……」
「何の不都合がある? 寝るだけの状態にしてあれば、話が終わったあとすぐに眠れて効率的だろうが」
時刻は夜十時。
リシェルの部屋の扉をノックしてきたレオーネは、こともなげにそう言った。
けれどリシェルにしてみれば大問題だ。
そもそも勤務終了時、「予想より遅くなりそうだから部屋に戻って食事や風呂をしてくれ」と彼が言うものだから、てっきり今日の講義は中止になったと思っていたのに。
——まさか、遅くなるから講義までに食事とシャワーを終えておけ、だとは思わないじゃない。
「あの、今日ではなく明日に変更していただけませんでしょうか」
「いや、一日も早いほうがいい」
「では身支度をととのえる時間をください」
とは言っても、上官である彼を待たせるわけにはいかない。
もうこれでいいかと、リシェルは寝間着のワンピースの上に薄手のカーディガンを羽織って広間に出た。
洗いざらしの髪は、まだ少し濡れていた。
レオーネは応接ソファに座ってリシェルを待っていた。
「君の席はここだ」
彼の隣を指定される。
「そんな、おそれおおいです。わたしは向かい側に」
「ひとつしかない資料を見ながら説明することもある。だから君の席はここだ」
「わ……かりました」
もうどうしようもないと、なかばあきらめの境地で彼の隣に腰を下ろした。
レオーネはいまだ隊服姿だった。
もしや仕事を終えるなりここに来てくれたのかと、申し訳ない心地になる。
「今日はまず、魔が何であるのかの話をしよう」
すぐさま講義が始まった。
「魔について、君は何と教えられてきた?」
「人外の不可思議な生き物、と。人を襲う、邪悪なものだと教えられました」
「そのとおりだ。が、エヴァルドの研究では、魔にも俺たち同様の世界があると考えられている」
「世界……それはいったいどのようなものなのですか?」
「いまだ詳細は不明だが、魔たちが生息する異空間のような場所があるらしい」
数日前に襲われた魔の姿を思い起こした。
獣のような形をしていたあれも、その場所からやってきたのだろうか。
「魔が生きる空間と、我々の世界は、時に影でつながってしまう。とくに夕刻は要注意だ。まだ影ができる時間帯でありながら、魔の力が強まる夜にさしかかる」
たしかに先日、リシェルが襲われた時も、夕刻だった。
「魔の姿は、その者が持つ力——つまり魔力によって異なるらしい。人型のような魔もいれば、獣や虫のような姿の魔もいる」
「エヴァルドでは、さまざまな魔が頻繁に出現するのですか?」
「人型はそう現れないが、獣や虫の姿をした魔はそこかしこで日常的に人を襲っていたな」
話を聞くだけで、ぶるりと身が震えた。
「心配するな、この国でそこまでのことは起こらない。なぜならこの国には、星の精霊と花の精霊の祝福がある」
「あ……」
自分たちがそれの力を継ぐ者だと思い出し、リシェルは無意識のうちにレオーネを見つめていた。
「ん? どうした?」
彼の金色の眼差しは強く、揺るぎない。
けれど時にこちらをいたわってくれているようにも感じられて、あたたかい。
「いえ、なにも……」
気まずくなって、すぐに視線を逸らした。
「続けるぞ」
レオーネの低い声は、耳に心地よかった。
「この国でそこまでのことは起こらないとは言ったが……実は最近、魔の出現が増えてきている」
「祝福のほころび、というものですか?」
「先代の星と花嫁が結婚してから、来年でちょうど百年だ。精霊たちが結んだ力が弱まってきている」
「ではこれからさらに?」
「俺とリシェルが結ばれるまで、魔の出現は増えていくだろう」
そう聞かされて、どきりと心臓が跳ねた。
自分と彼が結ばれる。
それをありありと意識してしまったのだ。
けれどすぐに、リシェルは我に返る。
——祝福なんて、目に見えない曖昧なもの。だからわたしとソフィアが入れ替わったところで、たいした影響はないと考えていたけれど……。
実際はそうではないらしい。
「不本意だが、これからはとくにリシェルが——星の花嫁が狙われることになるだろう」
「え……なぜですか?」
食い入るように彼の返事を待った。
「これはリシェル本人には知らせておくべきだと思うのだが、『星の花嫁』の真の名は、実は『魔と星の花嫁』という。つまりリシェルは、魔の花嫁にもなり得てしまう存在なんだ」
意味がわからなかった。
「エヴァルドの研究によれば、花の精霊は、結ばれた相手に自らの精霊力を与えられる特異体質だったらしい。つまり彼女は星と結ばれれば星の力を高め、魔と結ばれればそれの力を高める。そのため魔は彼女を得ようと狙ってくるのだとか」
「ですが、今までリシェルがとくに魔に狙われることはありませんでした」
記憶が正しければ、数日前の一度だけだ。
「十七歳になる日が、解禁される時だ」
いつしかレオーネは、ひどく真剣な面持ちをしていた。
「星と花嫁の結婚は、彼女が十七歳になるまでにと定められているだろう? その理由は、十七を迎えると同時に彼女の精霊力が高まり、魔に感知されやすくなるからだ」
「星と結婚をすれば、花嫁の精霊力は低くなるのですか?」
レオーネは静かにうなずいた。
「結ばれることにより、彼女の精霊力が星に移動するからな」
——そのようなからくりがあったなんて……想像もしていなかったわ。
リシェルは愕然とした。
星の花嫁と定められながらも、花嫁である自分がいったいどういう存在であるのか、今の今まで誰からも教えられてこなかったのだ。
——それはきっと、知る必要がないと判断されたからね。
リシェルに求められているのは、十七歳になるまでに、星と結婚すること。
つまりその理由をリシェル本人が知っていようがいまいが、国に命じられたその婚姻すら果たせば、それでよいと考えられているのだろう。
「……こわいか?」
レオーネに問われて、はっとした。
——どういう意味? 十七になったら狙われてしまうことが、ってこと?
リシェルはもうわけがわからなくなった。
リシェルであるけれど、ソフィアを名乗ってしまっている自分。
それを疑われているのか否か、今となってはもう何が何だかわからない。
自分がこの先、どうすればよいのかも——国のこと、伯爵家のこと、自分自身のこと。様々な要因が絡まり合い、ない交ぜになって、考えることに疲れを感じ始めていた。
「……いいえ、こわくなんてありません」
そう言いつつも、心細くて、無意識のうちにレオーネのほうに身を寄せていた。
「大丈夫だ。君のことは俺が守る」
肩に大きな手を置かれたかと思うと、そのままそっと引き寄せられる。
——このようなこと……だめだわ。早く離れなくちゃ。
けれど今は、彼のその行いを拒絶する気にはなれなかった。
リシェルを安心させようとしてくれているのだろう。髪を撫でるその手つきが、ひどく優しく感じられて。
——今は、このままで……真実を知って、混乱している今だけは。
リシェルは彼によりかかったまま、彼の話に耳を傾け続けた。