第一話
翌日から、騎士団特殊部隊での本格的な勤務が始まった。
従騎士——いわゆる騎士見習い扱いとなったリシェルに与えられた主な仕事は、エヴァルド語で書かれた文献の翻訳だった。
エヴァルドはここオルランド王国の隣国だが、いまだ強大な魔が横行している。そのため魔に関する研究が盛んに行われ、対魔の戦い方も確立しているのだとか。
星であるレオーネは、その地で五年間、魔について学び、先月、帰国した。
その際、エヴァルドの貴重な文献を大量に借り受けたらしいのだが、隊長職に就いた彼は多忙を極めているため、代わりに翻訳できる人材が必要とのことだった。
* * *
「……おー、なんだ派手なあくびなんかして、眠いのか?」
レオーネの執務室で黙々と仕事を進めていたリシェルに、ロッソが声をかけてきた。
「申し訳ございません……!」
リシェルは慌てて姿勢を正す。
「ああ、そんなかしこまらなくていい。レオーネもいねえんだ、楽にやってくれ」
言いながら、ロッソは部屋の本棚から、何冊かの本を取り出してよこした。
午前中の今、各隊員はそれぞれに与えられた仕事にあたっている。
レオーネは王宮の中央での会議に参加中。
本来であれば副官であるロッソも同行するらしいのだが、彼はレオーネの命を受け、リシェルにあれこれ仕事を教えてくれているのだった。
「専門用語はこの辞書を参考にしろ。これとこれもわかりやすいな」
「承知いたしました」
「さっき上がった分、チェックしてみたが、まあ問題はねえな。その調子で進めてくれ」
「よかった……! ありがとうございます!」
褒められれば嬉しくて、リシェルの頬は自然とゆるんだ。
「あんた……今のところまともだよな。たしかにあの報告書にあったようなことをやるようには思えねえ」
ロッソはリシェルの隣の椅子に座ると、ひとりごとのように呟いた。
「レオーネの言うとおり、やっぱりあんたが……」
横からじっと凝視されれば、なんだか居心地が悪くなる。
「な、なんですか?」
「いや、なんでもねえ」
そう言いつつも、ロッソはリシェルのことを観察し続けているようだった。
黒髪をかき上げるように額に手を置き、緑がかった蒼い瞳をこちらに向けている。
ーーうう……居心地が悪いわ。
「あんた、レオーネに部屋を移動させられたって?」
いきなり昨夜のことを話題にされた。
「あいつの——隊長用の部屋のうちのひとつに入れられたんだろ?」
「お断りしたのですが、受け入れていただけなくて」
ロッソはくくっと笑う。
「あいつ、イルデブラン家で生活するばかりで、寮の部屋なんか使わなかったのにな」
「そうなのですか?」
「あんたが来た途端に、だもんな」
「なぜそのようなことを……」
思わず疑問を口にすれば、「わからねえか?」と、ロッソがのぞき込んできた。
「俺はわかる。あいつがエヴァルドに来てから、ずっと一緒にいたからな」
ロッソは何かを懐かしむように、目を細める。
「あいつ、星の花嫁のことが好きで好きで、たまらねえんだよ」
「そう……なのですか」
リシェルの頬が自然と赤くなった。
「あいつとは、エヴァルドの対魔研究所で出会ったんだ。で、すぐに行動を共にするようになって、共同で研究なんかもするようになって……その頃からいつも言ってた。宿命の相手がいる、と。その彼女に恋をしている、と。今度こそ魔から彼女を守るんだって、あいつ、一度だって帰国せずに夢中になって魔の研究をして」
——今度こそ魔から守る……?
それがいったいどういうことなのか、リシェルにはわからなかった。
「だから今、あいつはどうにかなっちまうほど嬉しいはずだ。愛しのリシェルにようやく会えて、一日でも早く自分のものにしたくてたまらねえんだろ」
頬が赤くなっているのを悟られたくなくて、下を向いた。
そのリシェルとは、自分のことか、それともソフィアが演じるリシェルのことか、いったいどちらなのだろう。
「あの、リナルディ副隊長は、なぜこの国に?」
「ロッソでいい」
「ありがとうございます。——ロッソ副隊長はなぜこの国にいらしたのですか?」
「面白そうだったから」
「この国が、ですか?」
「レオーネが」
ロッソは子供のように目を輝かせた。
「あいつ、面白いんだよ。頭もキレる、剣もめっぽう強い、対魔の術だってすぐに習得して、誰より使いこなすようになった。で、あの無表情だろ? 研究所では氷の星っておそれられてて、でもあの顔だから女からはとことん人気があって」
たしかに、彼のあの外見を好ましく思わない女性はいないだろう。
「引く手あまたで、女遊びなんていくらでもできるんだぜ? なのに好きな女がいるからって全部断っちまうもんだから、あいつあの顔でおそらく女経験ゼロ——」
「ロッソ!」
その時、執務室の扉が廊下側から開けられた。
「おまえは……どうやら俺に葬られたいらしいな?」
部屋に入ってきたのは、おそろしいほどの殺気を発するレオーネだった。
直後、彼の手のひらに星形の印のようなものが浮かび上がる。
「わーっ! 待った! やめろ! 落ち着けレオーネ!」
「よけいなことを喋りすぎだ! それと、彼女とは最低一メートルの距離をとれと命じただろうが!」
「いや、それはほら、仕事を指示する必要があったから、な? しかたねえだろ?」
「黙れ」
やがてレオーネの手のひらが白く光り出した。
それは見る間に強く発光していく。
「って、対魔用の術を俺に使うな! 死ぬだろうが!」
「これ……あの時、助けていただいた時と同じ……?」
リシェルは無意識のうちに、レオーネの側に歩み寄っていた。
——きれいな光……なぜか、懐かしいような。
するとレオーネが、我に返った様子で開いていた手を閉じた。
光がたちまち消失する。
「これはエヴァルドに伝わる対魔用の術だ。かつては精霊が使う術だったらしい」
だから懐かしさを覚えたのだろうか。
リシェルの中にある、花の精霊の力が呼応して。
「そうだな……君はもう少し、魔について知ったほうがいい。とくにこの特殊部隊——魔を専門に扱う隊に在籍するなら」
「勉強不足で、申し訳ないです」
「いや、この国では魔に対する研究がほとんどされていないから、知らなくて当然だ。……そうだ、今夜、俺が君に教えよう。仕事を終えたあとになるから、少々、遅くなってしまうが」
「ご講義してくださるのですね。ありがたいです」
リシェルは声を弾ませた。
自分の知り得ない、けれど自分に大きく関係することを教えてもらえることが、ただ嬉しかった。
まさか考えてもいなかったのだ。
その授業が、執務室でなく、レオーネとリシェルの部屋の間にある広間で行われることになるなんて。
しかも食事や風呂を済ませた夜遅くに開始することになるなんて、予想もしていなかったのだ。