ep3.過去の夢と歪なオルゴール
夢を見ていた……。
姉さんと二人でファーメルンの街の外れにある湖で遊んでいた時のこと。
姉さん、いつも出かける時は決まってお気に入りの黒いワンピースを着ていたっけ……。
もちろん、あの青いペンダントも肌身離さず身に付けていた。
『ほら! アル、こっちこっち!』
姉さんはいつも僕の手を引っ張っていってくれた。僕も姉さんの手に引かれるがまま、はぐれないようにと一生懸命になって姉さんの後を付いて行った。
それは大切な人たちを奪い去ったあの戦争が起きた後もそうだった。
『大丈夫よ? アルはあたしがずっと守ってあげるから!』
いつも姉さんは不安で震えていた僕のことを守ってくれていた。どんなに辛いことがあっても、僕に不安を抱かせないためにも笑顔で居続けてくれた。
でもそれは遠い過去の話……。
気づけば姉さんは僕の前から姿を消していた。姉さんは僕を助けるためにいなくなってしまった。
『ふふっ。大丈夫よ、そんなに心配しなくても。すぐに熱によく効く薬草を採って来てあげるからね!』
「ダメ……そっちに行っちゃ……待って、姉さん――ッ!!」
扉の向こうへと行ってしまう姉さんに僕は手を差し伸ばす。その瞬間、視界が暗転して目を覚ます。
「はぁっ!? ゆ、夢なの……?」
まだ現実と夢の狭間に意識がある。その中で最初に僕の視界に映り込んてきたのは大きな天蓋だった。
全身に感じるふわっとした感触。どうやら僕はベッドの上に横になっていたようだ。
まだ体中に気怠さが残っていてうまく体を動かすことができない。視界もぼやけていて意識が安定しない。
「そうだ……魔女から出された紅茶を飲んで、僕は……」
毒物は入っていなかったようだが、睡眠薬のようなものは入っていたらしい。
ただ気怠いだけで、体に異常は感じられない。
でも、胸元にあるペンダントに触れようとした時に違和感を感じた。
「あ、あれ……ペンダントがない……っ!?」
僕は慌てて周囲を見回す。
しかし、意識がはっきりとしないせいで周りがぼやけて何が何だかよく見えない。
そんな視界の中でユラッとうごめく影が映り込んだ。
「あら、もう目覚めたのですか……まだ休んでいないといけませんよ?」
ネロの声だ……。
窓際にあった赤色っぽい椅子から立ち上がり、そっと僕が腰を掛けているベッドに向かって歩み寄って来る。
どうにかして後ずさろうとしてもベッドはただ音を軋ませるだけ。うまく体に力が入らなくて、僕はその場にまた倒れ込んでしまう。
それを見たネロはゆっくりと僕の体を抱き抱えて、再びベッドの上に寝かせる。
その胸元には僕が身に付けていた姉さんの形見のペンダントがキラッと青い輝きを放っているのが見えた。
「か、返して……姉さんのペンダント……」
僕は必死になって力の入り切らない震えた手でペンダントに手を差し伸べる。大事な姉さんから預かったペンダント……。
形見となってしまったペンダント……。
すると、ネロは不意にペンダントを自分の首から外し、僕の頭の後ろへそっと手を回した。
「ごめんなさい。少しだけお借りしていましたわ。今すぐにお返しいたしますね……」
ネロは僕にペンダントを返す。やっと自分の元に姉さんのペンダントが戻ってきてくれてほっと安堵を漏らすも、すぐに緊張感が走った。
僕はネロの目を見る。ネロは悲しそうな目をして笑っていた。
「本当に大切なペンダントなのですね。それは……」
「うん……それよりも、紅茶に何か入れてたの……?」
「あぁ、あなたの目元に大きなクマができていましたからね。しばらく眠っていないのかと思い、少しばかり薬を盛らせていただきました。特に眠っている間は何もしていませんから安心してください。多少、気怠さが残るかとは思いますがね」
「ペンダントを取っておいてそれ以外に何もしてないの……?」
「はい。万が一、私が何かしていれば今頃あなたはあそこにある墓の下ですよ?」
にこやかな笑顔で、ネロは窓の外にある墓場を見下ろす。裏庭には大量の墓石が連なっていた。周囲には白い靄が絶えず立ち込め、地面から浮き上がる青白い光の球が暗い墓場の中で彷徨い続けている。
僕も彼女に魂を喰われたらあそこにいる人たちのように永遠とこの地で彷徨うことになるのだろうか……。
「ふふ、安心してください。あなたはまだ墓の下には逝きませんから。その時が来ましたらしっかりとお知らせもいたしますので」
「そ、そう……」
やっぱり不思議な人だ。どんな人間でもすぐに喰らう魔女と聞いていたから少し拍子抜けだった。
しかし、芯から感じる恐怖心はまだ拭い切れていない。この人は魂を喰らう人食い魔女だ。僕だっていずれ、彼女に食べられてしまう保存食でしかない。
いつ食べられてしまうのだろう。
いつ死ぬことができるのだろう……。
いつになったらこの苦痛な日々から解放されるのだろうか……。
段々と心が暗く染まっていく。
「どうしてあなたはそこまで死に急ぐのですか?」
「えっ……」
「私は魂を喰らう魔女……これでも一応、人の心を読むことに長けています。特別に長けていなくても、今のあなたの表情を見れば誰でも分かりますよ。生きることに絶望し、死を心から望む死人の顔が……」
月明かりすら差し込まない不気味な夜に、冷ややかな少女の声が木霊する。
耳について離れないその声が、僕の心を大きく揺さぶる。
まるですべてを見透かしているような紅い瞳。儚げな印象を受ける彼女から感じる気配は、夜の闇よりも深く、そして濃いモノだった。
「……僕ってそんなに死にたがってる顔、してるの?」
「はい。この世界に生まれ出たモノ、すべてに何かしらの理由が存在しています。そして、考える思考を手に入れた生き物たちは自分の存在理由を求めて生きようとします。あなたは何のために生まれてきたのですか? 何のために生きているのですか? 何のために死に急ぐのですか……?」
「そ、それは――あっ!?」
「人と話す時はしっかりと目を見て答えなさい。そうしなければ、伝わるものも伝わりませんよ?」
両腕を捕まれて、彼女の顔がぐーっと目の前に近づく。瞳に映り込んでいるのは怯えた僕の瞳だけ。
僕はどうにかして彼女から視線を逸らそうとしていた。
でもそれを彼女が許さない。
ネロは一体、僕に何を伝えたいのだろうか。恐る恐るじっと目を見つめてみてもその答えはいつまで経っても出なかった。
「……姉さんと、みんなとまた逢いたかったから。だから、この丘に来た……」
「私に殺されるためにですか?」
ネロの問いかけに今度はすぐさま頷く。
彼女はしばらくの間、僕の目をじっと覗き込んでいた。覗き込んで、僕の伝えたい気持ちをしっかり理解しようとしている。
そして、ネロの顔がゆっくりと僕から離れていった。
「本当に仕方のない子ですね……でしたら、せめて私に魂を奪われるまでは健全なままでいてください。魂は鮮度が命ですからね。死に近づけば近づくほど鮮度が落ちますので、良いですね?」
「も、もしも……嫌だって言ったら……?」
「ふふっ。聞かない方が身のためですよ? 死ぬのが恐ろしくなりますからね……」
「うっ……」
身の毛もよだつような冷酷な笑みを浮かべるネロ。やっぱり何を考えてるかさっぱり分からない魔女だった。
「それでは少しばかり私の力をお見せしましょう」
「力……?」
「はい。ほら、こんな風に……」
「えっ……炎?」
急にネロが右の手の平を僕に差し出すと小さな炎がポッと湧き上がる。メラメラと音を立てて燃え上がる青い焔は不思議と熱を感じなかった。
「熱くないの……?」
「熱くないようにしてますからね。ちゃんと熱を持たせることもできますよ」
「あつっ!」
「あらあら、少しばかり火力が強すぎましたね」
ネロはクスクスと笑い、強く燃え上がった炎をまた小さくしていく。
自由自在に炎を操るなんてやっぱりネロって魔女なんだと再確認した。どこでも火を出せるなんて何とも便利な力だとその時は思った。
しかし、彼女の笑みは次第に冷たい物へと変化していく。
「こうやって見ると小さな可愛らしい炎に見えますが、一歩間違えれば村すら焼き尽くす地獄の業火にもなり得るんですよ」
一言そういうと、ネロはパンっと片方の手で燃え上がっていた小さな灯火を消し去る。飛び散った火の粉が闇へと溶けて再び部屋に暗闇が降りる。
さっきの明るさでまだ目が慣れてないせいか、ネロがどこにいるか感覚が掴めない。
しかし、背後から悲しげなオルゴールの音色が突如として奏で始めた。
「私の唯一の楽しみは、こうして夜遅くにこのオルゴールの奏でる音色を聴くことです」
「……それには特別な思い出でもあるの?」
「はい。私の大切な、大切な宝物です」
「でも何だか音がズレてるよ? 歪んでるっていうか……」
聞けば聞くほどオルゴールの音がズレていく。歯車の一部が欠けてしまったかのように、いびつな音色が夜の闇に閉ざされたこの部屋に響き渡る。
たぶん壊れている……。
そんなことを考えた時、壊れてなんかいないというネロの強い視線を感じた。
「大分古いものですからね。以前のような音色は奏でてくれないんです。ですが、あなたが身に付けているペンダントのように、私にとってみればかけがえのない大切な宝物なのですよ」
「宝物……? それは誰からの贈り物――」
鋭い視線が僕の胸を貫く。これ以上、過去を詮索するなというネロの警告だった。
突然と舞い降りる異様な沈黙。先にその沈黙を破ったのは他でもないネロであった。
「もう夜も深いです。さて、寝ましょうか」
「う、うん……ってここで寝るの……?」
「もちろん。ここは私の部屋ですから、自分の部屋で寝るのは当たり前のことです」
「じゃあ僕は出て……うっ……」
また全身にあの気怠さが戻って来る。どうやらまだ薬の効果が残っていたようで、段々と体から力が抜けていく。
体が怠くて動かない……。次第に意識も薄れていって、そのままベッドの上に倒れ込んでしまう。
そして、ネロが僕の耳元で小さく囁いた。
「おやすみなさい、良い夢を……」