ep2.魔女に魅入られた少年
冷ややかな魔女の声が響き渡り、全身が凍り付く。間近では魔女の怪しげな紅い瞳が僕の瞳をじーっと捉えて離そうとしない。
指先一本でも動かそうものならすぐにでも魂を喰らわれる。そんな恐怖心と緊張感が僕の体をさらに硬直させていく。
それを怪訝に思って、魔女は視線を僕からそらさないまま再び口を開いた。
「理解できませんでしたか? ではもう一度だけ言いますね。私に魂を、喰い潰されたいのですか?」
もう一度、頭の中に響いてくるさっきとまったく同じ声、言葉。
もともと僕は、死ぬために魔女の住む丘を訪れたはずだった。
でも、魔女の問いかけにすぐには頷けなかった。実際に魂を喰らう魔女を目の当たりにしてしまい、死ぬのが怖くなってしまったから……。
それでも僕は震える気持ちを無理に押し殺して、今できる最大限の動きで魔女に頷いてみせる。
最初はじーっと僕の顔を見て首を傾げていた魔女であったが、不意にクスッと笑った。
「面白い子ですね、自ら魂を捧げ出そうとするとは……あなた、お名前は?」
「ぁ……アルフォード・フェルヴェルミント……」
「アルフォード・フェルヴェルミント……。そうですか、あなたが……」
魔女は興味深そうに僕の顔を見つめる。
そして、僕が首からさげていたペンダントに気づき、そっと目を細めた。
「ふふっ、この丘に佇む屋敷の主としてアルフォード、あなたを歓迎いたしましょう」
「えっ……か、歓迎って……」
想像もつかない魔女の回答に僕は思わず困惑してしまう。
しかし、魔女は玄関先に転がっていたカンテラを糸も使わずにたぐり寄せると、狼狽していた僕の手を静かに握り締める。
すごい力だ……。
白くて、か細い腕なのにしっかりと掴んでいて振り払うこともできない。
そもそも、彼女に腕を握られた瞬間から力を奪われたかのようにまったく力が入らなかった。
「さぁ、行きますよ」
「ちょ、ちょっと――」
僕の回答を待つこともなく、魔女に屋敷の中へと手を引かれていった。
屋敷の中は本当に暗かった。常に日差しも月明かりも差し込まないこの丘では、窓から入り込んでくる光も期待できない。
明かりとなるものは魔女が手に持っていたカンテラか、ちらほらと壁に掛けられていたキャンドルの灯火くらい。
しかし、屋敷の大きさと比べて光源となるキャンドルの数が少なすぎた。これでは足元もろくに見えない。
そんな暗闇に満ちた屋敷の中でさえも、魔女は一切の迷いもなく、僕の手を引いて真っ直ぐに廊下を歩き続けている。
「ま、まだ……た、食べないの……?」
全身にまとわりついて来る沈黙が嫌になって、僕はついに魔女に話を切り出す。
体の中で、心臓の鼓動を打つ速さが増していくのをひしひしと感じる。自分でなんてことを口走っているのかなと思ったけど、魔女が未だに何もしてこないことが不思議でフシギで仕方がなかった。逆に恐怖心さえ覚えてくる。
しかし、魔女は僕の焦っている気持ちに気づいたように怪しげな笑みを浮かべて答えた。
「くすっ、私は『すぐに』食べるとはひと言も言ってませんよ? 未熟な魂のままでは美味しくないですからね。どうせなら、じ~っくりと成熟し切ってから食べることにします」
「じっくりと……」
魔女の言葉に戦慄が走る。すぐには食べず、美味しく熟成してからじっくりと味わう。今から手に入った食材をどう料理しようかと、楽しみながら迷っている魔女の横顔には狂気すら感じられた。
怖い……とにかく怖い……。
震える体が意思表示として、目の前に立って笑う魔女に伝わってしまう。
すると、魔女は再び僕の腕を掴み、歩き出す。
さっきまでとは違う、やんわりとした感覚。それでいて、しっかりと離さない力強さが僕の腕を通して感じる。
僕が逃げることすらできないと悟ったのだろう。僕は魔女に引かれるがまま、屋敷の中を歩き続ける。
そして、ついにある場所でその歩みが止まった。
「さぁどうぞ、その席におかけになってください」
「し、失礼します……」
魔女が引いた椅子に、僕は恐る恐るそこへ腰をかける。
手元にあるのは大きな横長のテーブル。木製のようで、その上を覆うように清潔感のある白いテーブルクロスが敷かれていた。
左手の壁には僕の身長よりも大きな柱時計が佇む。チクタク、チクタクと重々しい振り子を揺らめかせながら時を刻み続けている。重量感があって何だか威圧的だ。
すると急に何かの視線を感じて右手を見れば、この丘の周辺が描かれた絵画が掛けられているのが視界に入り込む。屋敷の窓から外を眺めている少女の姿が、まるで僕のことを監視しているようで気味が悪い。
その絵画の隣にはこれまた大きな食器棚が置かれていた。棚の中を見つめると乱れることもなく、整然と並べられた食器類がやけに不気味さを誘っているように見えてしまう。
背後からは頻りにガタガタと風に揺れて音を立てている大きな窓ガラスが四つほど。
そして、正面に向き直ってみると開いていた扉をゆっくりと閉めていた魔女の姿があった。
「暗いとよく表情も見えませんからね……しっかりと明るくしませんと……」
僕へ語りかけるように明かりの灯ったカンテラをテーブルの上に置いた魔女がパンパンっと、軽く二回ほど手を叩く。
次の瞬間、驚くことにさっきまで明かりの灯っていなかったキャンドルすべてに炎が宿った。
柔らかな灯火が薄暗かったリビング内を温かく照らし始める。
しかし、僕は未だに震えが止まらなかった。
そして、魔女が僕の正面の席に座り、再びあの紅い瞳で僕の目を見つめてきた。
「さてっと……改めまして、ようこそ私の屋敷へ。私がこの屋敷の主であるネロソフィーと申します。あなたの魂が成熟するその時まで、どうぞお見知り置きを……」
そう言って、魔女であるネロソフィーは丁寧な自己紹介をする。
僕の表情をよく見ているのを感じる。観察するほどの余裕があり余っている彼女。それを目にした僕は背筋がゾッとしてしまう。
この人は、この状況を心から楽しんでいる……。
やっぱり噂通りの恐ろしき魔女だった。
「ふふ、そう畏まらなくても怖がらなくてもいいのですよ? 先ほども言った通り、まだ食べたりはしませんから……」
そうは言ってもいずれは食べられてしまう。優しい微笑みを浮かべながら何ともえげつないことを平然と言ってのけてしまう人だった。
さすがは魔女というべきなのだろう。
「そうですわ。アルフォードは紅茶は飲めますか?」
「あぁ……う、うん、飲めるよ……」
「それはよかったです。ではさっそく紅茶の準備をいたしましょう」
ニコニコとした表情でさっきキャンドルに火を灯したように、二回ほど軽く手を叩く。
すると、ひとりでに絵画の隣に置かれていた食器棚が開き、中から二つの緑色の模様が描かれた白いティーカップとティーポット、そしてティースプーンが二つ、テーブルの元へ飛んでくる。
手慣れた手つきで瞬時に紅茶を作り、僕の前に熱々の紅茶が入ったティーカップを差し出した。
「どうぞ、庭先で採れた特製の紅茶です。ミルクも砂糖もしっかりとございますよ」
「あ、ありがと、う……」
紅茶と共に差し出されたシュガーポットとミルクポットに視線を落とし、僕は彼女にお礼を言う。
とりあえず砂糖とミルクを少し入れて、ソーサーに載せられていたティーカップの取っ手を握る。そこで僕は今一度、ティーカップの中を覗き込む。
さっきまで真っ赤に染まっていた紅茶がミルクと混ざって綺麗な褐色のミルクティーとなっている。香りもほどよい香ばしさがあり、しつこさを感じさせない。きっと味わいも香りに勝るとも劣らない美味しさなのだろう……。
だけど紅茶を見つめたまま、なかなか思うように手が動いてくれない。
その時、いつまで経っても紅茶を飲もうとしない僕を見つめている視線が正面に座っていた彼女から感じた。
「安心してください。死に至るような毒物は一切、入っていませんから」
目と目が合ったその瞬間、彼女は僕が考えていることを察した様子でひと言そう告げる。
そして、ゆっくりと毒物が入っていないことを自ら飲んで示した。
僕は彼女の姿を見て、恐る恐るティーカップを口元まで運ぶ。口の中に広がる紅茶の香り、味わい。冷え切っていた体を芯から温めてくれる。
「あ、あの……ネロソフィー、さん?」
「普通にネロでよろしいですよ」
「それじゃ……ネロ?」
「はい、何でしょう?」
「……姉さん、メリーヌっていう女の子を知ってる……?」
「メリーヌ……ですか」
突然、ネロの表情がガラッと変わる。さっきまでの余裕にも満ちたような、優しい面持ちが一瞬にして消え去る。
そこに座っていたのは紛れもない、冷酷な魔女そのものだった。
鋭い視線が僕を捉える。そして、ゆっくりとティーカップを手元に置かれていたソーサーの上に戻した。
「……残念ながら、そのような方はこちらにいらっしゃった覚えはありませんね」
「そ、そぅ……」
心臓が飛び出るかと思った。視線で殺されるかと思った。それだけ今の彼女が見せた眼力は恐ろしいものだった。
ここには姉さんが訪れていない。そうなれば、姉さんは一体どこに行ってしまったのだろうか。
まだ生きているのだろうか……。
そんなことを考えているうちに、今度はネロが逆に質問をしてきた。
「では今度はこちらからご質問をさせていただきます。アルフォード、あなたの好きな食べ物は何ですか?」
「……す、好きな食べ物?」
「はい、お聞かせ願えますか?」
「う、うん……僕は、リンゴが好きかな……」
「リンゴですか。他には何かございますか?」
「あとは……チョコレートとかパンケーキとかハニートーストとか……」
「クスッ、思ってたよりも甘い物がお好きなんですね」
不意に魔女であるネロに笑われてしまう。それが何だか恥ずかしくて、ついそこで喋ることをやめる。
姉であるメリーヌ姉さんの影響で、僕は大の甘い物好きだった。両親を失うまでなら望むだけ食べられたのに、今になってはもう遠い過去でしかない。
戻れるのなら……あの頃に戻りたかった。
「……話を変えましょうか。今度は好きなことはなんですか?」
「好きなこと……?」
空気が重くなったことを察したのか、ネロが急に話題を変えてくる。今度は好きなことについてらしい。
「はい。好きなこと、これをしている時が一番落ち着くことなどなど。お聞かせ願いますか?」
「落ち着くこと……本を読んだり、姉さんが本を読み聞かせてくれたり、あとはオルゴールを聞いてる時かな」
「なるほど……本当にお姉さんが大好きなのですね」
「えっ……ま、まあ僕の唯一の家族だから……」
「唯一の……ですか」
ネロは僕の言葉を聞くなり、悲哀に満ちた表情をこちらへ向ける。
数々の魂を喰らってきた魔女というだけあって、人の内に潜む心を読むことができるのだろうか。
何だかすべてを見透かされているような気がする。
でも、不思議とさっきまで感じていた怖さが緩和されたような気もしていた。
「最後に、あなたは私のことをどう思っていますか?」
真っ直ぐな視線が僕の胸を貫く。紅く染まった瞳が血のように真っ赤となって、僕からの回答をじっと待ち続けている。
下手な答え方をしたら気が変わって、すぐにでも殺されるかもしれない。
そう考えるだけで、やっぱり怖い……。
でも隠し通せるような相手じゃないことはさっきの会話を聞いても分かる。
だからここは、素直に答えることにした。
「こ、怖い……魔女……」
「他には……?」
明らかに、怖い以外の言葉を口にしなければ殺されるような殺気を彼女から感じる。
だけど、他にあるとすれば……。
「怖いけど……何だか、不思議な魔女……どうして、そんなに捕食相手のことを知りたがるの……?」
「ふふっ、あなたは喰らう相手のことを知りたがる私が本当に不思議で仕方がないのですね。ですが、答えは非常に簡単なことですよ。たとえばそう、あなたの前に大好物のリンゴが二つあったとします。でも残念なことに一つしか食べることができません。そんな時あなたはまず、最初に何をしますか?」
「何をするって……どっちが美味しそうか確認して、選んだ方をどう食べようか考えるけど……」
「はい。対象をよく観察し、そしていかに美味しく食べようかと、その調理法を考える。私のやっていることはそれと同じことですよ。あなたのことをよく知ることこそ、魂をさらに美味しく食べるための秘訣なのです」
やっぱりこの人は魂を喰らう魔女なんだと、今の発言を聞いて確信した。
本当に楽しそうに話をしている。
でも何だろう、この感じ……まるで姉さんと会話をしているようだった。
だからなのか、不思議と彼女に少しずつ惹かれていく自分がいることに気づいた。
その時、不意にリビングに置かれていた柱時計が大きな音を立てて鐘を鳴らし始める。時刻は午後六時を示していた。
「あ、あれぇ……急に……目が、ぼやけて……」
何だか急に視界がぼやけてきた。目の前にいるネロが三人に見えてしまう……。
そんな僕の姿を目にしたネロは、紅茶を飲みながらクスッと笑った。
「どうかなさいましたか? そんなに目をとろーんとさせてしまって……クスッ」
「うぅ……んっ……」
頭もボーっとしてきて、焦点が合わない。ネロの口にしている言葉も耳の奥でこもったように聞こえてくるだけ……。
次第に椅子の上で座っていることもままならなくなってきて、力が全身から抜けていく。その代わり、堪えがたい気怠さと睡魔に全身が支配されていく。
まさか、何か紅茶に盛られていたのかもしれない。
毒物じゃない、何かが……。
でも今更気づいたところでもう遅かった。
ついに体から力が抜け切り、僕はテーブルの上に突っ伏してしまう。
もう、手足の指先一本にも力が入らない……。
「ふふっ……大分お疲れのご様子で……。いいのですよ……そのままゆっくりと、お休みになってくださいね……」
最後にネロの怪しげな笑みがぼやけた視界の中に映り込み、そして意識が途絶えていった。