最終話
そして、時は流れ。
初夏のある日。彼は黒いサングラスをかけてその家を訪ねた。南向きのその部屋の窓際では、一人の若い女性が椅子に座り、窓から外を眺めていた。はるみである。彼女は彼が部屋に入ってきても微動だにせずにじっと窓の外を見詰めている。中二のあの夏からもう何年も経っていた。あれから一度も彼女には出逢っていない。だが、彼女はまったく変わっていなかった。少し昔より細くなってはいたが、それもやつれたといった痩せ方だった。彼は「今藤…」と声をかけたが、彼女は動く気配もなかった。
かわいそうなはるみ。好きだった相手に冷たくされた少女時代だった。だが、やっと愛する人を見つけて一緒になった矢先に、その愛する人を事故で亡くしてしまった。生きる気力がなくなってしまうのはそれはしかたがない。しかし、それでも生きていかなければならないのだ。亡くなった者も自分たちが死ぬなど思ってもみなかったことだろう。そんな生きたかった者達の思いを背負って、我々は生きていかなければならないのだ。
(だから、君は生きなくちゃいけないんだよ、田辺の分も)
彼は歌った。囁くように。ここに向かう飛行機の中で即興で作ったその歌を。
あの夜を覚えているかい
二人で見詰めた暗い空を
確かに僕らは同じ未来を見詰めていたね
君の笑顔
君の歌声
君の表情
すべてを僕は覚えているよ
さよならも言わずに
僕らは別れてしまったね
君にごめんと謝りたかった
僕のありったけの愛を
君に伝えたかった
幼かった僕
幼かった君
もう幼くは無い僕らだけど
あれから数え切れない辛さと悲しみに
心挫けそうになったけれども
それでも僕らにはまだ愛がある
二度と失いたくないものを守りたい
愛はそのためにあるんだよ
二度と悲しい思いをしたくない
僕らはそのために存在してるんだよ
忘れないであの夜を
忘れないで僕らのことを
忘れないよ君の笑顔を
忘れないよ君の歌声を
僕を虜にしたあの歌声を
僕は君にも聞かせたい
僕のありったけの愛を
君へと
僕のありったけの愛を
捧げるよ
ありったけの愛で
君を癒したいから
彼女は振り返った。彼女は泣いていた。だが、微笑んでもいた。その笑顔には確かに生きる希望が感じられた。
「ありがとう、神楽くん。あなたに逢いたかった。逢ってあなたに謝りたかった。私のせいであなたが嫌な思いをしたんじゃないかって、ずっと気にかかっていたの」
そして、矢張り彼女が心壊してしまう前に送ったメールが「もう一度逢えるなら」の歌のモチーフになったメールの主であったことを知った。
「あなたがデビューしたことは知っていたわ。忘れるはずがないじゃない。あなたは私の初恋の人だったのだもの。ずっと忘れられなかった。でも、そんな私をいつも見守ってくれていたのが田辺君だったのね。私が神楽君を忘れるまでずっと待つと言ってくれてた。本当に優しい人だった。あなたの歌う歌を私が好きで聞いているのにはちょっと複雑な思いを抱いていたみたいだけれど。それでも耳について離れない歌は歌ってくれたのよ。あなたほど上手じゃなかったけれど」
彼女はにっこり笑う。まだ目には涙が光っている。
「私、頑張る。夫の分も強く生きるわ。神楽くん、見ていてちょうだい。私、あなたの歌を支えに頑張るから」
彼は彼女の為に作った歌を「ありったけの愛で」とタイトルをつけ発表した。そして、その時のインタビューにこう答えている。
「僕と彼女はちょっとしたすれ違いで大きく運命が分かれてしまったんだ。確かに中学生の時の僕は子供で、相手の気持ちなど考えずに突っ走っていた。勝手に相手の気持ちをこうなんだと決め付け、自分のことだけだった。けれど、それが悪いわけじゃないと思うんだ。若いってそういうことなんだと思うんだよ。それが若さってものなんだってね。そうやって僕らは大人になっていく。間違いを犯しながら、後悔しながら、そして、自分なりに正しい人生を歩んでいくんだ。たとえすれ違ってしまった運命でも、何かのきっかけでまた交差することもある。今回の僕と彼女のように。たとえ辛い別れをしたとしても、必ずまた新しい出逢いはある。最悪だと思われる時に最悪な結果を出さずに、時が過ぎるのをじっと待つことも大切なんだよ。きっといつか闇は払われる。二度とは晴れないかもしれないと思われる闇もいつしか終焉を迎えるんだ。そのために、僕は歌うよ。愛しい人たちのために、僕のありったけの愛をこめて。生きるんだよって。だから、みんなには強く生きて、強く誰かを愛して欲しい。僕はそんなみんなを心から愛しているから。僕以上に君達を愛している男はいないんだからね。それを忘れないで欲しいと思っているよ」
彼は歌う。彼の歌を心の支えにして頑張っている人々の為に。そして、何より自分自身の為に。かつての愚かだった自分を自身で救う為にも。そうやって人は生きていく力を身に付けていくのである。