第5話
そして、全く口をきかなくなってしまってからしばらくが経ち、とうとう明日から夏休みという日がやってきた。
その日の放課後、彼は職員室で自分の担任に挨拶をしていた。すると、そこへ、彼女がやってきた。同じく担任に何か用事があるらしく、彼が担任に挨拶をするのを神妙な顔つきで待っていた。彼は「お世話になりました」と頭を下げてから職員室を出た。しかし、矢張り彼女に未練があり、職員室の前をウロウロしていたのだ。そして彼女が用事がすんで出てくると、先に立って歩き出した。矢張り声はかけられない。最後なのに、それなのに声はかけられない。彼は己をなんて意気地なしなんだと責め、彼女の視線を痛いほど背中に感じて彼女の前を歩いた。
教室に着く。二人とも荷物をまとめる。彼女はまた新学期にこの教室にやってくるが、彼はもう二度とここにくることはない。前日までに少しづつ荷物は持って帰っていたので、今日という日には鞄一つを持って帰ればよかった。彼女はなかなか教室を出ようとはしなかった。いつまでもこうしてるわけにはいかない。彼は彼女を残して教室を出た。だが、すぐに「何か忘れ物したような気がする」と大きく呟きながら戻った。すると彼女がこちらを見た。だが、矢張り何も言えない。情けなくなりながら教室を再び出る。とぼとぼ廊下を歩き、階段を下りる。一階に辿りついたその時、誰かが階段の上にやってくる気配がした。上を向くと彼女だった。何か言いたそうな顔をしている。彼は待った。だがしかし、彼女は何も言わない。じっと彼を見詰めているだけだ。
言え。言うんだ。どちらが? 彼女が? いや、本当は自分が言うべきだったんだ。一瞬ではあったが、時が止まったようなその時に、言えばよかったんだ。何を? 好きだって? ごめんって? 手紙書くよって? いや、何でもよかったんだよ、何か言えば。どんな言葉だってよかったんだよ。何も言わずに立ち去るよりは。
だが、彼は立ち去ってしまった。何も言わずに。彼女はどう思ったんだろう。あの時、彼女は何を思って自分を見詰めていたのだろう。彼は、ずっと長い間、それを知りたくてしかたなかった。あれから何年も経ち、いろんな女と付き合ってきた彼ではあったが、それでも、もうすぐで十四歳になろうとしていたあの夏の日の、初恋の彼女の気持ちがどうしても想像ができない。あれからいくつもの恋愛の歌を歌ってきた彼であっても、それでも思春期の女の子の気持ちはなかなか理解はできなかったのだ。
彼女は何を自分に求めていたのか───
そして、現在。大人になった彼のもとに、一通の手紙がきて、その答えが提示されようとしていたのだ。
『姉はずっとあなたを想っていました。僕はあの頃は小学生ではあったのですが、姉があなたのことをとても好きなんだということはよくわかりました。大好きな姉を夢中にさせるあなたに嫉妬さえしたものでした』
手紙は続く。
『だから、あなたが転校してしまって、姉はひどく後悔して、しばらく落ち込みがひどかったんです。どうしてあなたに好きだと一言言わなかったのだろうと、激しく自分を責めていました』
彼女もまた彼と同じ気持ちを抱いていたのだ。
『ですが、時というものは人を癒します。いつしか姉もあなたを忘れる…ところまではいかなかったかもしれませんが、それでも、他に好きな人ができたのです。あなたも知っていると思いますが、田辺さんですよ。田辺さんは家の都合で進学が出来ず中卒で働きに出なくてはならなくなってしまったんです。でも、田辺さんは、神楽さんがいなくなってしまって意気消沈していた姉をいつも励ましてくれ、姉が高校卒業するのを待ってくれて、二人は結婚したんですよ』
そうか、二人は結婚したんだ。胸は痛むが、それでも彼女が幸せになったというのなら、それはいいことだ。
『でも、それだけならこんな手紙は差し上げません。義兄は、田辺さんは、去年のクリスマスイヴに仕事の途中に冬山の崖から車ごと落ちて亡くなってしまったのです』
「え、死んだ?」
『姉はその日の朝に可愛がっていたハムスターも老衰で死なせてしまっていたのです。そんな精神的ダメージの上に、さらに笑顔で送り出したはずの夫をその日のうちに亡くしてしまった。けれど、それだけなら、何も姉だけが不幸というわけではない。そんなことはこの世界で幾らでもある不幸です。動物にしろ、人間にしろ、生きているということは、いつか死んでしまうわけですから、何も姉だけが大切な人を亡くしたからといって世界で一番不幸というわけじゃない。弟である僕だっているし、母や父だっています。全力で姉を癒したいと思ってもいます。そんな家族がいるから、姉だってきっと立ち直れると思っていました。実際、姉も健気に頑張っていましたよ。僕らに心配をかけまいとして。年末までは普通に見えました。けれど、駄目だったんです。姉は自分の殻に閉じこもってしまいました。魂の抜け殻のようになって、毎日をただ漫然と息を吸っているだけの人形のようになってしまったのです』
言葉が出なかった。心臓が鷲掴みされたような気持ちになった。
『だけど、年が明けてあなたが新曲を出したでしょう。あの歌をたまたま姉が聞いたのです。テレビから流れてきたあの歌を姉が聞いた瞬間、滂沱の如く泣き出したのです』
あの歌、恐らく「もう一度逢えるなら」だ。あれは年末に送られてきたファンからのメールにヒントを得て作った歌だった。男も女も一歩外を出れば生死のわからぬ世界を生き抜いているのだ。別に本物の戦場で戦うわけじゃないが、それでも生きているということは死ぬことだってあるわけで。朝送り出した大切な人がもう二度とは生きて戻らないかもしれない。けれど、もう二度と逢えなくても、それでもその人の分まで生きていこうと、そういうことを歌ったものだった。メールには大切な人が亡くなって、自分も生きていく気力がなくなったと書いてあった。それを励ましたくて、何とか生きる気力を持ってもらいたくて、それで作った歌だったのだ。メールをくれた相手にはそのことは書いて返信した。君の力になりたいから作ったよ、と。それに対しての返信はなかったが。
「待てよ…」
彼は一つ気付いた事がある。そういえばあのメールでは、大切な人が亡くなったことと、もう一つ可愛がっていたペットのハムスターも死んでしまったと書かれてはなかったか?
(まさか)
『外界のことにまったく興味をなくしてしまっていた姉ですが、あなたのあの歌だけには反応しました。どうかお願いです。姉に生きる力を作ってやってください。虫のいい話だとは思います。あなたのような有名人に、昔ちょっとの間クラスメイトだったというだけの繋がりで、こんな願いごとをするのも許されないことなのでしょうけれど、もうあなたに縋るしかないのです。少しでも昔の同級生が憐れだと思ってくださったのなら、どうか、姉に逢ってやってください。逢うだけでいいんです。それだけでもしかしたら姉も正気に戻ってくれるかもしれません。どうかお願いします』