第2話
それは五月だった。その日は風が強く吹いていた。放課後、テニスコートで彼は練習をしていた。コートの近くには自転車小屋が並んでいた。その近くには木造でボロボロの小屋みたいな建物があった。はるみとその友達は強い風から逃げるようにその小屋の近くからいつものようにテニス部の練習を見ていたようだ。もしかしたら、好きな男の話でもしているのかもしれないと思った彼は、同じテニス部の田辺と鹿本に「彼女たちを驚かせてやろう」と誘った。そっと、気づかれないように小屋の向こう側に回り、彼女たちが何を話しているか聞こうとした。しかし、ぼそぼそと話声は聞こえるが、話の内容まではよくわからなかった。何だ聞こえないじゃないかと彼らは思ったが、次の瞬間、はるみの歌声が聞こえてきたのだ。それは、アニメの主題歌だった。田辺や鹿本はニヤニヤしているだけだったが、彼は違った。
(なんてキレイな声なんだ)
今までに女子の歌を聞いたことがなかったわけじゃない。音楽の時間では、生徒を一人一人前に出して歌わせるという事もあったし、自分も幼い頃から音楽のレッスンをさせられていたこともあり、歌う事には自信もあった。同じ年頃の者には負けないというプライドも持っていた。そんな肥えた耳を持つ彼にとっては、彼女の歌声は衝撃的だった。
(高音がこんなにキレイに出ているなんてすごいな)
そして、彼はもっと聞きたいと思い、近くにあった台を持ってきて、それに乗った。田辺や鹿本は、彼が彼女らを驚かそうとしいるのだろうと思ったらしく、自分たちも彼に倣って台に乗った。そして、三人は隣が覗ける上の方から彼女らを覗き込んだ。とたんに、はるみの友達の悲鳴が上がった。その悲鳴に驚いたはるみも上を見上げて悲鳴を上げる。彼ら三人はバツが悪いといった表情を見せた。
「ずっと聞いてたの?」
はるみが言った。田辺と鹿本は向こうに行ってしまったが、彼は一応「ごめんな」とはるみに謝ったのだった。
「歌、うまかったぞ。田辺の奴も言ってた」
「そ、そう…」
「?」
何となく彼女の表情が微妙だった。まさか、彼女の好きな奴って田辺じゃないだろうな。
(だから、そんなにおどおどしてるのか?)
彼はすごく聞いてみたかった。おまえって田辺が好きなのか。だから毎日テニス部を見てるのかって。だが、聞けなかった。何故か聞けなかった。後に聞けばよかったと激しく後悔したものだった。そうすれば、あんな別れ方をすることもなかったのに、と。
次の日、別のクラスの田辺と鹿本は、はるみがアニメソングを自分たちが聞いているとも知らないで大声で歌ってたんだとみんなに話したらしい。彼らと同じクラスだった、はるみの友達、昨日一緒にいたその友達が慌てて彼女に知らせにきたのだ。
「話してたのは鹿本君で田辺君はそれ聞いてニヤニヤしてたのよ。ひどいよねえ」
「田辺君が?」
はるみはちょっと悲しそうな顔をした。そんなふうに彼には見えた。
(やっぱり田辺が好きなんだ)
チクリと胸が痛かった。だが、その痛みを忘れるように朗らかに彼女に声をかけた。
「気にすんなよ。田辺、ほんとおまえの歌うまかったって褒めてたんだぞ」
「…………」
はるみは複雑な表情で彼を見詰めるとこう言った。
「歌だけ?」
「え?」
「歌だけしか聞いてない?」
「どういうことだ?」
彼女は唇を噛むと続けた。
「歌の前の会話は聞いてない?」
「会話…」
ああ、そうか。彼女が何を気にしていたかわかった。歌の前にボソボソなにやら話していたが、それを聞かれたんじゃないかと、それが気になっていたのか。成る程。
「聞いてないぜ。俺ら、おまえが歌いだした頃からあそこにいたんだもんな」
「そうなの」
とたんに晴れ晴れとした顔になる。それを眩しそうに彼は見詰めた。と、同時に、いったい何を話していたのかがとても気になった。だが、それもすぐに知ることになる。
次の日の放課後、教室で彼女と彼女の友達二人と話をしていた時だ。
「今日のフォークダンスの練習どうだった?」
彼ははるみにそう聞いた。
泊りがけで近くの山に登山をしに学校行事で行くのだが、夜のレクリエーションでキャンプファイヤーがあり、その時に踊るフォークダンスの練習を授業でやったのだ。
「どうって?」
「俺、まだよく覚えてなくてさ。おまえと踊った時にヘンじゃなかった?」
「そんなことなかったよ」
彼は、はるみの手の感触を忘れていなかった。細くて華奢な手で、強く掴んだら壊れてしまいそうだなあと思ったものだった。ちょっと冷たかったが、冷たい手は心が温かいって聞いたこともあるし。何となく顔がにやけてくるのを止められないでいたら、近くで大きな声が上がった。
「えー、じゃあまだ書いてあるんだ?」
はるみの友達の小池だった。すると、小池がはるみに聞いてきた。
「自転車小屋に相合傘書いたんだって?」
「あ、うん」
「それであんたの名前と好きな奴の名前書いたって?」
「……う、ん」
(そうか。それで気にしてたんだな。てゆーか、好きな奴の名前書いたって?)
彼はそう思い、つい口を出してしまった。
「まだ書いたままなのか?」
「え、うん。まだそのままだと思う」
「見にいこうかな」
「えっ?」
彼女のびっくりしたその顔を見て、何だか無性に腹が立ってきた。絶対見てやる。
「じょ、冗談でしょ」
そう呟いた彼女は、次の瞬間、だっとばかりに走り出した。「あっ」と思った時にはもう教室を出ていた。彼は負けじとそれを追いかけた。そんなに必死になって消しに行く姿を目の当たりにして、よっぽど相合傘の相手が好きなんだなと思った彼は、何とも言えない嫌な気持ちになった。
そんなに好きなのかよ、田辺が!
彼女は足が速かった。そういえば体育の時に短距離走で何時も一番だった。陸上部からも入部しないかと声がかかっていたこともあると言っていたはず。だから、さすがの彼でも追いつけなかった。自転車小屋に辿りついた頃には、すでに彼女は落書きを消してしまっていた。肩で息をする彼女のその姿を長いこと忘れることはできなかった。