護身用のナイフは玩具ではない。
「貴方が大人しく私と共に来るならここにいる者達にはもう手は出しませんよ?」
魔族の言葉への私の回答はこうだ。
「もう十分手を出しておいて何いってんの?」
だってそうでしょ。何も否がない子ども達をこんな場所に連れて来て、ラスやウィードをこんなに傷つけて、存分に悪いことしてるのになにをまるで『この辺でやめてあげる』的な言い方をしてるの?今までこの魔族がやったことを考えたら、『はい。そうですか』にはならないでしょ。ウィードの怪我だって治さなきゃだし。私の怒りは全然収まらないわ。
「はははは。これはこれは世間知らずのお嬢さんだ」
魔族は額を押さえ天井を見上げるようにして笑った。
「わかりやすく言いましょうか。貴方に拒否権はないのですよ?私に付いてくる以外……」
……じゃあ何故聞いたし。
まあ、でもそう言われてもやっぱり『はい』とは言えないし、言いたくないのよね。
「残念。私にも拒否権はあるの」
まだラスは目覚めないけれど十分回復していると思うから、私はラスに向けていた回復魔法を終了し、黒いロングスカートの裾をたくし上げ、太ももから護身用のナイフを取り出した。
なにか鞘の中で固まったような感じがして、ナイフを引き抜くのにちょっと力が必要だった。
「ははははははははは。面白い、面白いですね。そんな玩具で私と戦おうというのですか?」
今度はおなかを抱えて激しく笑い始める。
確かに、護身用のナイフというだけでウィードやシオンのような聖印もない。赤いルビーが装飾された銀色のこのナイフにそんな強い殺傷能力があるとは思えない。きっとフルーツナイフの方が切れ味は良いだろう。
上手く『料理が出来ない』スキルで真っ二つに出来ればいいけれど、ある意味あのスキルって運なのよね。切りたくないものまで切れたり、切りたいものが大して切れなかったり……賭けの側面が強すぎて外した時のバツが悪すぎる。
ただ、この局面では掛けてみるしかない。
「玩具かどうか確かめてみましょうか」
私はそう言うと、魔族の首元をめがけてナイフを切りつけた。
思ったより早く動けたと思う。
先ほどまでのウィードと魔族の戦い方と比べたら、私って結構素早く動けた方。そういえば、転生の時に女神が言っていたなあ。
『運動神経も付けちゃう!』
あれが活かされたというのかしら。
今まで屋敷の敷地内での暮らしだったから、こんなダッシュしたことなかったんだけど、意外と私ってすばしっこくない?
とはいえ、相手は流石に魔族。私の攻撃を言葉のとおりひらりと躱した。
私が切りつけたナイフは辛うじて魔族の首の右側に一筋の傷を付けただけだった。
正直、ここに来るまでに戦ったアンデッドがシオンの頬につけたような傷よりも浅くて短い傷で、皮膚を少し切っただけのかすり傷みたいなものだった。
「やはり玩具ですね。とはいえ、動きは速かったですね」
本当は避けるつもりはなかったが、予想以上に私の動きが速かったから咄嗟に防御反応を取ってしまった、とか、私が商品じゃなかったら詰めてきた瞬間に殺すことが出来た、と偉そうに魔族が喋る。
「くくく……どうですか。これで思い知りましたか、絶望を浮かべてもいいんですよ?玩具でどうすることも出来ないと。貴方に拒否権はない、と……?」
魔族はそこまで言うと、はっと気付いたように慌てて先ほど私が傷を付けた首を押さえた。
押さえた手を広げて見ると、僅かながらに血が付着していた。
「な、なん、だ……」
魔族は両手を胸の前で開いたり閉じたり繰り返しながら後退る。口元からは泡が零れているようにも見えた。
「お、お前、何を……毒か……」
苦しそうな表情を浮かべ、私を忌々しそうに睨む。
うん?毒?
私は握りしめていた護身用のナイフを見た。そういえば、剣先に何かがこびり付いたような後がある。
……お?
これって、もしかして屋敷にいた時ラスから貰ったマシュマロ焼いた時に付いたやつじゃない?
鞘から抜くときにちょっと大変だったのって、鞘の中でこれが固まっちゃっていたからね。
そうか。
あの時焼いたマシュマロ、やっぱり毒になってたんだ。
中がトロっとして美味しいなあって思ったけれど、『料理ができない』スキルのせいで毒になっていたのか。ただ突き刺して焼いただけなのに料理判定されるってどうなんだろう。
それにしてもちょっと大袈裟じゃない?剣に付いていたのってほんのちょっとだし、もう固まっているのに。
魔族は自分の両手で首を絞め、膝から崩れるようにして倒れ込んだ。その口の端からは更に細かな泡が垂れ、瞳孔が細かく揺れている。
「こ、むす、め……がっ……こ、むす、め……がっ……」
倒れた魔族は私に向かって地を這うように手を伸ばす。気がつくとその指は既に骨と皮だけのように見えた。魔族の顔に目を移すと、やはり顔も痩け薄い皮が張り付いているだけのようで、次第に墨汁でも垂らしたかのような黒いシミが広がっていく。
「おの、れ……おの……れ……」
小刻みに震えていた魔族は、そのまま黒いシミに覆われ、やがて黒い霧となってその場から消えていく。握っていたあの笛だけが地面に残った。
魔族が消えると同時に、シオンが対峙していたアンデッドも砂のようにその場に崩れ、やはり黒い霧となって消える。
なんだろう。思ったよりもあっけなかったなあ。
出会った時は「ああ魔族なんて聞いてない」「もう私の転生人生も終わった」って思っていたのに。
この魔族が弱かったのかしら?
いや、でもラスもウィードも手も足も出せない感じだったしなあ。
「リノ?」
対峙していたアンデッドが消えたシオンは、構えていた剣を降ろし呆然と私を見ていた。ああ、この目。見たことある。ガムサキ村でジャイアントオークキングに火炎球放った時もみんなこんな顔していたわ。私ってばまたやっちゃった?
「あ、あの……リノ?色々聞きたいことがあるのです、が……」
シオンの口調がいつもより丁寧に聞こえる。
何を聞かれるんだろう、なんて答えたらいいんだろう。私は視線を斜め上に逸らし、シオンの目を見ないようにした。
ん?
そういえば、何か忘れているような……
視線を壁に移すと、そこには呆然と私を見ながらも動けないでいるウィードがいた。
ああ、そうだ。ウィード回復しなきゃ!ごめんっ!