19 根回し
時折吹く風が、窓を叩く音が聞こえる。
カーテンから漏れる陽の光が、次第に長い影を落とすようになってきた。
そんな光の変化を、ベッドに横たわりながら、目を開けてぼんやりと眺めていた。
-風も出てきたし、もう少しで夕暮れか。
体調を崩して、ベッドで横になっている時、時間の流れは、いつも異様に遅く感じる。いっそのこと、眠りに落ちてしまえば、少しは楽になるし、回復も早くなるだろう。
だが、高い熱のせいで体のあちこちがきしみ、息が苦しい。
重い物が、のしかかるような倦怠感が、幼い体に全体を覆い、眠ることすらできない。
それでも、昨日よりは少しマシになっているとは感じる。
若い体は良いな。もう少し回復すれば、薬を飲めば眠りにつくことが出来るようになるだろう。それまでの辛抱だ。
ヴァーヴェリナは、ベッド脇に置いてあった強い睡眠薬を手に取った。
今は無いよりましという程度のポーション。だが、少しでも眠り、体を休ませることが出来れば、少しでも早くに回復できる。
ガラス製の栓をカチャリと抜いて、中のポーションを飲み干した。
そして身の置き所の無い体を、少しでも楽にしようと無意識的に何度も寝返りを打ち、やっと、うとうとし始めたのは、外が暗くなった頃だった。
まどろみの中、部屋の外、ドアの前で声がして、やっと眠りに落ちそうだった意識が、引き戻された。
護衛の者と、誰かが話しているようだ。
耳を澄してみると、少し低めの聞き覚えのある男の声だった。
―やれやれ。もう帰ってきたか。
ため息をつきながら、体をゆっくりと起こしてベッドの縁に枕を一つ立てかけ、もたれかかった。
皇女の私室は、この離宮の中でも特に厳重に管理されている。
部屋のドアの開閉は、ドアノブに魔力が登録がされた者、数人しか開けることが出来ない。
また、人が魔力を使うときは、ほんのわずかではあるが、独特の光を放つ。
その放つ光は、使うものによって変わる。つまり人間の顔や指紋と同じで、一つとして同じものはなく、誰がその力を使ったかは、その人の持つ光を知っていれば、判別できるものだった。
トントンと二回のノックのあと、ドアノブはふわりと黄色く光り、カチャリと音を立てて開いた。
失礼します、と挨拶のあと、一人の男を先頭に、数人の男女が部屋の中に入ってきた。
-やはりイネスか。 エデナから、まだ帰還したとの連絡は受けていないが、どうしてだ?
そもそも、エデナはどうしたのだ?
イネスは部屋の中ほどまで進むと、振り返り、後に続くものに軽く手をあげ、そこで待つよう指示をした。
あとに続いた数人の男女は、入り口付近で立ち止まり、視線を落とすように軽く頭を下げて、次の指示を待った。
彼は、そのままベッド際まで進み出て、胸に手を当てお辞儀をし、優し気な笑顔で挨拶を始めた。
「おや、こんなお時間に、もうお休みでございましたか。大変失礼いたしました。帰参のご挨拶に伺いましたが、起こしてしまい大変申し訳ございません。」
「侍女を先に遣わせもせず、部屋まで押しかけて何を言う。長い挨拶はいらん。どうせ、全てわかっているんだろう?」
「なんのことでございますか?」
「とぼけなくともよい。折角、もう少しで眠れる所だったのに。」
「おや、どうなさいました? お顔色が優れませんね。体調がお悪いようですね。」
ヴァーヴェリナは何か言いかけたが、やめた。
何を言っても口では敵わない。 軽くため息をついたのち、口をつぐんだ。
この男は、さっき自分が言ったとおり、全てを分っていて、今ここに来ているに違いない。無駄なじゃれあいはやめよう。
ベッドに立てかける枕をもうひとつ増やし、上半身を完全起こして話し始めた。
「早かったな。エスタ鉱山の交渉は、もう片付いたのか?」
「もちろんでございます。侯爵様も、殿下のためなら、直轄領指定を快諾していただけましたよ。」
「陛下のためだろう。」
そうですね、失礼いたしました。とイネスは右手を胸にあて、謝罪する仕草をした。
「お前は、その気になった時は、恐ろしく仕事が早いな。普段からそうして欲しいよ。細かい報告は後日聞くとして、まずは、ご苦労だったな。」
そこまで話すと、ヴァーヴェリナはイネスに見えるように左手の親指で、左人差し指に着けてある指輪を軽くなでた。すると今まで聞こえていた暖炉の薪が燃える音や、外の風の音がスッと消えていった。
***
この指輪は『レリム』言われる魔術道具である。
呪文を詠唱しながら、軽くこするか叩くなど刺激することで、魔術を発動することが出来ものである。
レリムの形は様々であるが、左手の上に右手を合わせているのが礼儀である上流階級の女性や侍女は、腕輪型をはめることがが多く、男性は、利き手と反対の手の人差し指にはめる指輪型が多い。そして、呪文も口をほとんど動かさずに、口の中でわずかに唱える。人知れず魔術を発動することが出来るためだ。
男性が利き手に着けないのは、剣や弓を持って戦いながら魔術を発動したい時に、指輪をこするのが不便となるからだ。
騎士でない魔術使いなどは両手の人差し指にレリムをはめていることが多い。
本当は、レリムがなくとも、魔術の発動は可能だ。
長々と呪文を詠唱したり、術名を唱えさえすれば、アイテムがなくとも、自分の手から発動できるし、ワンドやスタッフの様な、魔力を集めて発動できるアイテムを用いれば、なお良い。
だた、戦いの際には詠唱する時間もなく、術名を唱えて相手に何の術を使うか知られたくない時もある。また、日常的にアイテムを持ち歩くのは、難しい場合もある。
そこで上流階級の者や、魔術使いの多くは、この魔術道具を身に着けている。
使うことにより、発動までの時間が短縮できるし、術が確実になるからだ。
ちなみに、本当に力のある魔術師は、レリムを使わずに、口内で呪文の詠唱や術名を唱えるるだけで魔術を使える。
また、さらに力の強い魔術師は、レリムも、呪文の詠唱や術名を唱えなくても、術を発動させることが出来るが、 そこまで強い力を持つのは、この世界では、ヴァーヴェリナほか数人しか、居ないはずだ。
***
どうやら、ヴァーヴェリナは盗聴防止の術を発動させたようだ。
これで、イネスとの会話は、他の者には聞こえない。
「相変わらず無詠唱ですね。何をされるか分からず、本当に怖いですよ。」
「レリムを使っただけ、親切だろう?」
レリムを使うと言う事は、今から術を使うと相手に知らせることにもなる。だから、できるだけ相手に気づかれずに発動できる様、アクセサリーとして身に着けている。
先ほどヴァーヴェリナが、わざと使うのを見せたのは、彼に対する合図だった。
おどけて見せるイネスに対して、ヴァーヴェリナの顔はうかないものだった。
「あの杏林達はなんだ? エデナはどうした?」
「ご自分がなさったことがお分かりでしたら、ご理解いただけると思いますがね。人をお使いに出している間に、おいたが過ぎますね。」
「お前がいたら、反対しただろう?」
「私を追い払ったのは認めるのですね。つれない方ですね。」
イネスは笑みを浮かべたまま、体をかがめてヴァーヴェリナに顔を近づけた。
「召喚自体は、反対していません。むしろ、喜んで協力すると言っていましたでしょう?
主君が危険を冒すことに賛成する者はいません。失敗すればどうなっていたか分かっていますよね。」
「ああ。」
「私の提案した召喚が、お気に召さなかったのですね。困った方だ。」
「…。」
ヴァーヴェリナはバツの悪い顔をして、斜め下を向いて黙った。
「そんな顔をしてもだめですよ。まあ、今回は、幸運にも、これぐらいで済んだのですから、ほんの少しのペナルティで許してさしあげます。
エデナは、急なことですが、宮廷から直々に皇妃の主治医としてご指名があって、昼前に皇妃宮に発ちましたよ。ご挨拶できずに申し訳ないと伝えてほしいと言われました。
あ、そうそう。これも急な話ですが、実はベリルの森に植物系の魔物が出現し、遠征隊を組むことになりまして。
植物系の魔物ならと、アナに応援要請がきました。近衛兵を割くのは痛いですが、こちらとしても協力しない訳にはまいりません。今、外にいたアナに伝えたところです。」
「なに? 私は、そんなことは許可していない。」
ヴァーヴェリナは身を乗り出し、キッと、イネスを睨みながら強い口調で言い放った。
「そんなに、睨まないでくださいよ。私が決めた訳ではありませんよ。彼女達は、それぞれ優秀で必要な人材だから、宮廷から直々に指名されたのです。
こちらとしても皇妃様や、魔物に困っている民衆をほっておくわけにはいかないでしょう。」
「私から二人を奪うのか!」
「奪うのではありません。仕事です。冷静におなりください。
そして、自分の行ったことをよく考えてください。あなたの行為が、自分と彼女達に、何をもたらしたのかをね。」
イネスの笑顔が消えた。
「あの二人は、あなたが、こんなに寝込むことが判っていて、止めなかったのですよ。
主君を言いなりになるばかりが、臣下ではありませんでしょ? 君主が無茶をしたり、誤りを犯そうとするなら、身を挺してでも止めるのが臣下の務めですし、貴女もそう望んでいますよね?
彼女らは、その務めを放棄したんです。そして、貴女も彼女達なら、許してくれるだろうと甘え、私を遠ざけ、彼女達を使った。
それは、主君と臣下の本来あるべき姿ではありません。
皇帝が権限を再掌握するには、何度も申しますが、今が本当に大事な時です。あなたが寝付いただけで、私でさえ、こんなことが出来るのですよ。もっと御自覚なさい。」
彼の言うのは正しい。
分かっている。ヴァーヴェリナはきゅっと口をむすんでしばらく何かを考えていた。
そんな彼女をイネスは静かに見つめていた。
「イネス。」
「はい。なんでございますか?」
しばらく間をおいて、ヴァーヴェリナが口を開いた。
「今回の事は、私が悪かった。
彼女達は、もちろん私を止めたが、私が無理に頼んだのだ。二人にあまり重いペナルティを与えてくれるな。」
「彼女達なら、難なくこなせる課題だと思っていますよ。それぐらいできなければ、ここにいる資格はないでしょ?」
「ひびき、いや召喚者は…」
「ひびきさんとおっしゃるんですね。彼の待遇は、できるだけあなたの意に添うようにしますが、彼の使い道は沢山あります。
何が最適解か、しっかり考えましょう。この件はひとまず、私が預かります。いいですね。」
「…わかった。」
その後、天蓋の幕が下ろされ、医師の診察が行われた。
彼らの見立てはエデナと同じだった。あと、10日ぐらいはこのまま横になっていなければならない。
イネスは医師達に、できるだけ早く体調を回復できるように、薬を処方する様指示しし、今回の件ではあまり効き目が無いと考えられるが、回復魔術の使い手を、よこすように言った。
ついでに、『薬の味はどうでもいいです。できれば、うんと苦く、不味くしてください。』と付け加え、医師達の笑いを誘った。
診察が終わった後、イネスが再度、笑顔でベッド脇に来た。
「仕事がですね。とても溜まっていましたよ。私は今から執務に戻ります。今夜は徹夜かなぁ。本当に人使いが荒いんですから。
仕事は、当分は私が回しますから、ある程度の判断は、お任せ願えますね?」
「…任せる。」
その後、ヴァーヴェリナ不在の間の、仕事の段取りを打ち合わせた。
ヴァーヴェリナが神童と言われる皇女であっても、当然知らない事が沢山ある。イネスは彼女が政治を行う際にアドバイスを行う枢密院顧問である。彼は、信じられないほどの政治的知識や経験を持っており、ヴァーヴェリナは彼に、よく遣り込めめられていた。
そんなわけで今日も、政策意見を交わしていると、『もっと勉強してくださいよー。』『私が過労で病になったら、ヴァーヴェリナ様に責任取ってもらいますからねー。』と軽口を叩いてきた。
そんなイネスと、やり取りを続けるうち、ヴァーヴェリナはいつもの事ながら、次第に腹立たしくなってきた。腹立ちが熱と相まって、目がくらくらする。
「お前は、病人になんて態度だ。もう知らん! 私は寝る!」
と言って、布団を頭からかぶってふて寝した。
全く、なんて奴だろう。
イネスは、やれやれ、今日はここまでにしておきますね。と言って席を立った。
「イネス。」
「はい。何でございますか?」
部屋を出て行こうとした彼に、ヴァーヴェリナは布団から顔を半分出して声をかけた。
「お前も、少しは勉強しろよ。皇女様に対する態度とか、『私でさえこんなことができる』という間違えた言い回しとかな。礼儀や文法はお子ちゃまの頃習うものだろう?」
せめて、少しでもの嫌味を返したい。
「『私でさえ』って、間違っていないと思いますがね。ああ、そうですか。皇女様は、私はなんでもできる凄い人間だと、やっと解かってくださったのですね。過分な評価をいただき、誠にありがとうございます。」
わざとらしく、丁重にお辞儀をするイネスを見て、さらに腹正しくなってきた彼女は、枕を投げつけたが、彼はヒョイと交わして、バイバイと言わんばかりに手を振りながら、早く休むように言って、部屋から出て行った。
腹立たしさからか、熱がさらに上がった様な気がする。
また、急に動いたためか、強烈なめまいを感じる。
-くそっ!
ヴァーヴェリナは、もう一度、頭から布団を乱暴にかぶって、ふて寝した。