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夏・第四話


 家に戻ると誰も居らず、居間のテーブルに書き置きが貼られていた。そこには、急な仕事が入ったので数日家を空ける、という旨が記されている。郵便受けを確認してみると、手紙はそのままだった。恐らく見ていないのだろう。俺は自分の手紙だけを残してチラシを抜き取った。


 天気予報の通りに晴れの続いたある日の放課後。涼しい場所を求めて校内をうろついていると、音楽室の前で中村と女子生徒が何やらもめていた。

「伴奏がいないと練習出来ないじゃん……そうだ、ウメダちゃん器用だからピアノ弾けるかも!」

「え、その人って美術部員じゃなかったか? 器用さの方向性が違うと思うんだけど」

誰かに連絡しようとする茶髪の女子生徒を中村が止めている。何となく中村が苦労していそうな気配を感じたので、声を掛けた。

「中村、何か困ったことでもあったのか」

「あ、ああ。涼野。これから合唱部の練習なんだけどさ、伴奏の奴が休みで……その代打を探そうとして金井が美術部の友達に助けを求めようとしているところだ」

金井という茶髪の女生徒を呆れたように見つめる中村が言うには、コンクールが近いので練習を中止に出来ないが伴奏なしのままで練習するのは避けたいことらしい。

「だってさ、なるべく本番に近い形でやりたいじゃん? あと六日しかないんだよ?」

「だからって美術部に伴奏を頼もうとするのはやめてやれよ……相手も困るだろ」

再び問答を始めた二人に向かって、質問を投げる。

「その伴奏の奴はいつ復活するんだ」

「明日には学校来られるって言ってたけど」

中村からの回答を受けて、ファイルを持っている金井に話し掛ける。

「楽譜はあるか」

「あるけど……もしかして、ピアノ弾ける人!? 伴奏やってくれるの?」

金井がファイルから取り出した楽譜を受け取って頷く。今日だけの代打だ。

「……いいのか?」

驚いたように中村はそう聞いてきた。

「いい」

ピアノは嫌いじゃないからな。


 合唱部の代打伴奏は、これまで生きてきた中で一番いい演奏だったと思う。何かが満たされたような気持ちで帰路につき、家の玄関を開けると母の靴があった。仕事から帰ってきたようだ。その振る舞いには特に変わったところが無いように思えたが、夜も遅いという事でピアノの練習は言い渡されなかった。手紙を見なかったのか、はたまた見た上で何も言わないのか、と考えながら自室に入ると、机の上に何かが置いてあるのに気が付く。手に取ってみると、それは手紙のようだった。俺の書いたものとは封筒が違うので突き返された訳では無い。開封すると、母からの手紙が出て来た。椅子に座って、書かれていることを読んでいく。曰く、俺の手紙を見て思うところがあり、口下手な母は面と向かって話すとどうしても説教をしてしまうので手紙を書いたらしい。俺が自由を欲している、というのは伝わったようだが、才能のあるピアノをやめて欲しくは無い、とも書かれていた。なので、練習の形を変えて行きたいがどうか、と締めくくられている。読み終わってから息をつく。率直に言って、意外だった。母がこちらに歩み寄ろうとするなんて、予想だにしなかったことだ。だが、これからは手紙を使って少しずつ気持ちを言い合うことが、出来るのかも知れない。


 連日の猛暑日で、誰もがそろそろ雨を、と望んだ頃に、恵みの雨は降り注いだ。俺にとっては待望の雨である。しばらく振りに喜雨と会うことが出来るだろう。報告したいことが色々あるのだ。授業が終わると真っ先にテラスへと足を運んだ。


 雨のテラスが持つ独特の雰囲気は変わらない。ゆっくりとドアを開けてテラスへ入った。

「喜雨、いるか?」

声をかけながらガラス席へと近づく。するといつもの席から喜雨は顔を出した。

「しばらく振りだね。来ると思ってたよ」

まあ座って、と促されるままに席につく。

「様子を見る分には、いいことあったのかな?」

俺が何かを言う前に喜雨のほうから聞いてきた。

「あの手紙をきっかけに随分変わった。聞いてくれ」

「勿論」

喜雨はわくわくとした表情で俺が話し出すのを待っている。晴れの日が続いた間も、気にかけていてくれたりしたのだろうか。

「母は、あの手紙をちゃんと全部読んだらしい。驚くことに俺に歩み寄る気があるみたいでな。手紙という形を使ってはいるが、お互いに話も出来ているんだ。それに……ピアノは、今も続けている」

最近は、演奏することに何の抵抗も無くなっていて、気ままに弾けていると思う。

「涼野君は、嬉しい?」

話を聞き終えた喜雨は、人の良さそうな笑みを浮かべてそう聞いてきた。

「……まあ、そうだな」

変化は確かにあって、以前より居心地が良くなったことは明らかだった。

「良かった」

自分のことのように笑顔を見せる喜雨は、この結果を予測していたのだろうか。

「喜雨」

「何かな」

「……こうなること、分かってたのか?」

ふふ、と喜雨は目を細めて笑う。

「どうだろうね」

分かっていたのかもしれないし、違うのかも知れない。喜雨の表情からは読み取ることが出来なかった。

「…………なあ」

「うん?」

改まって喜雨に向き直る。これだけは言っておかなければならない。

「ありがとう」

シンプルで明快な感謝の言葉。これがきっと一番伝わりやすい。話を聞いてくれたことも、手紙を書かせてくれたことも、背中を押してくれたことも、全部。この言葉に収束される。

「どういたしまして」

俺が見た中では一番の笑顔で、喜雨からはそう返された。

「涼野君の悩みは、解決したかな?」

「した。もうこのことで悩むことはない。だから、何か恩返しをさせてくれないか」

喜雨は俺の環境を好転させてくれた。その恩人に何かしたいと思うのも当たり前のことだ。

「……実はお願いしようと思っていたことがあるんだけど、それを聞いてもらえるかな」

どんな内容なのだろう。喜雨の力になれることならば、やりたいと思うのだが。

「分かった。難しいことでも何とか努力してみよう」

そう答えると喜雨は嬉しそうに笑った。

「涼野君にならできるよ。大丈夫」

喜雨は優しい奴だ。こう言うということは、無茶なお願いではないのだろう。

「お願いしたいことは………………」


雨は降り続く。向日葵の花が、雨粒を受け止めながら、二人の約束を聞いていた。



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