夏・第三話
傘をさして帰路につく。別れ際にも喜雨は上手くいきますように、と言っていた。曇り空は真っ白で明るく、少し眩しい。目を細めながら、手紙のことは成功しても失敗してもどちらでもいいな、と考える。全くの他人である喜雨が真剣に向き合ってくれただけでも満足で、それ以上のことを望むのは欲張りな気がしていたのだ。後で喜雨にはお礼をしようか、そう考えながら水たまりを踏む。家に帰れば、どうせすぐにピアノの前に直行させられるだろう。下手に口答えをすると余計に長くなってしまうし、今日の所は黙っておいて、寝る前にでも手紙を書いてみようか。効果があるかどうかは知らないが、書くだけ書いて、その後の反応を見るとしよう。考え事をする内に、自宅が見えてきた。無駄に大きな家。一般的には金持ちの部類に入ると思われる。金と自由と、どちらを望むか、なんて問題があったりするが、俺は自由を選びたい。ただ、そう思ってしまうのは無いものねだりなのだろうか。濡れた涼野の表札を指でなぞると、大粒の水滴が地面に吸い込まれていった。数段の階段を上って玄関の鍵を開けると、奥の方のダイニングから母が顔を出した。
「着替えてすぐに降りてきなさい」
「……………………分かった」
返事をしつつ二階へと上がる。本当は、母を突っぱねてしまう事は簡単なのだろう。でも、俺には出来なかった。母は己の考えを押し付けるような人だが、それでもきっと、嫌いにはなれなかったのだと思う。それは、母の考えの中に俺のため、という部分があるからなのかもしれない。たとえそれが、的外れなものであったとしてもだ。
母の指導の下でピアノを弾くと、どうにも抑圧されている感覚が強くて思ったように指が動かない。そのぎこちなさを指摘されるたびにストレスだけが募っていくという悪循環は、いつものことである。不毛な練習はしばらくの間続いた。
自室に戻ると、卓上ライトを点けて机に向かう。目の前には紙とペン。さて、何から書き出そうか。綺麗な文字にするつもりはないのだから思い付く限りのことを適当に書いておこう。普段考えていること、口では言えなかったこと……何より、自由を願っていること。これが母に伝わるかは分からないが、何もせずにいるよりは、少し自分の心が落ち着いたような気がする。
次の日の朝、登校する前に昨日の手紙をそっと自宅の郵便受けに入れておいた。これで母の目にとまるだろう。読まれても読まれなくてもいい。空を見上げると、ぱらぱらと雨が降っていた。そういえば喜雨は幽霊ではなかったわけだが、あいつは雨の日にしかテラスにいないからその時に会いに来て欲しい、と言っていた。妙な話ではあるが、きっと理由を聞いても明確な答えは返ってこないだろう。気にしないことにするのが賢明というものだ。とにかく、今日が雨だったのは都合がいい。放課後になったらテラスへ行ってみるとしよう。傘に当たる雨の音を聞きながら学校に向かった。
いつものように授業を聞くが、普段なら終わらないで欲しいと願う授業も今日は何だか長く感じる。テラスへ早く行きたいとでも思っているのだろうか。喜雨だって生徒なのだから放課後にならなければテラスへは来ないというのに。長く続いた授業が終わると同時に教室を出る。廊下の窓の外は雨のままだった。
べたつきと暑さが漂う中、テラスに足を踏み入れた。相変わらず雨の日は静まり返っているものだ。後ろから二番目のガラス席へ行くと、昨日と変わらない景色があった。
「……喜雨」
声をかけると喜雨は顔を上げてこちらを向いた。
「あ、涼野君。こんにちは」
にこりと笑ってノートを閉じながら、そう返される。話を聞いてくれるようだ。
「昨日はありがとな。手紙は書いて置いて来た」
席につきながら率直に礼を述べる。
「そっか。気持ちの整理はついた?」
そう聞かれて目を見開く。確かにその通りだが、なぜ分かったのだろうか。喜雨が手紙を書くよう言ったのは、母に読ませるためだったはずだが…………自分と向き合わせる、という意味も込められていたと考えるべきだろう。
「整理か。何かが変わったわけじゃ無いが、心は落ち着いたよ」
そう答えると、喜雨は満足そうに頷いた。
「それは良かった。何をするにも、気持ちの問題って大事だからさ」
目を閉じてそう言う喜雨は、どこか大人びて見える。
「……喜雨は達観しているような雰囲気がある、気がするな」
「そう? そんな風に見えてるならそれは、受け売り……になるのかな」
受け売り、という部分が気にはなったが、それを尋ねても答えては貰えないのだろう。喜雨は人の話をよく聞く割に、自分のことは話さない。初めに名前を聞いた際に喜雨、とだけ教えられたことがその最たるものである。話さないものを追求するのは野暮というものだ、俺は話題の転換に意識を向けた。
「手紙のことがどうなるかは分からないが、結果が出たら報告に来るよ。助言をくれた本人だしな」
「うん、待ってる」
喜雨には、手紙がどう転ぶのかの予想がついているのだろうか。少なくとも俺には、結果の予測などさっぱり出来ない。
「でも、報告は結構後になりそうだな。天気予報はしばらく晴れだった」
苦笑しつつそう言った。雨の日を待ち遠しく感じる日が来ようとは。
「そうだね。雨乞いでもしようか?」
喜雨はいたずらっ子のように笑って返す。誰かと話して楽しいと思ったのはいつ振りだろう。また雨の日がすぐに来たらいいのに、と願いながらとりとめもない話をする。しばらく談笑してからテラスを出た。帰る時に喜雨は、またね、とだけ言って手を振った。次がある、というのはどうにも嬉しいものらしい。




