春・第三話
自宅へ戻ると、制服も脱がずにベッドに飛び込んだ。髪や服が雨で少し濡れてしまっているが、そんなこと、今はあまり気にならない。薄暗い部屋の中、明かりも点けずに先程の出来事への思いを馳せる。何とも不思議な人だった。あそこまで私の話を真剣に聞いてくれた人は初めてで、外の天気とは裏腹にどこか晴れやかな気分になっていた。
あの後、暗くなるといけないから、と帰宅をすすめられ、それに従うことにしたのだ。別れ際に喜雨さんは、雨の日はここにいるから、と言った。話がしたくなったらまたおいで、とも。また相談してもいいのか、と思うと心が軽くなった。そして、今日のことのお礼を言って、帰路についたのだった。仰向けに寝転び天井を見ながら、目にかかった前髪を払って呟く。
「君らしく生きていい……か」
誰かに肯定されるのは、こんなにも嬉しいことだっただろうか。これまで私は、私であることを諦めていたのだと思う。周りと違う私が、自己主張してはいけないと、そう思っていた。だって誰も聞き入れないし、それならば意味がないから。けれど、その前提が間違っていたのかもしれない。周囲の人間がどう思うかは関係なくて、責任を持てるのは自分だけ。喜雨さんはそう言っていた。どうせ責任を取るのなら、他人を気にせず自分の思うような行動をしたほうが、後悔せずに済むはずだ。それはきっと、他人を省みなくなることとは違う。思いやりは持つべきだけれど、他人からの評価を気にしなくてもいいのではないか。そうだ、文句を言ってくる人なんて、五月蝿い犬が吠えている、くらいに思っていればいいのかもしれない。そう結論付けると自然と笑みがこぼれた。
そんなことをしていると、自室のドアがノックされ、母に夕飯だと呼ばれる。慌てて服を着替えて食卓に向かった。私の顔を見た家族達から、何かいいことがあったのか聞かれたので、秘密だと答えておく。少なくとも今だけは、私自身がこの気持ちを噛みしめていたかったのだ。この日の夕食はいつもより、美味しく感じた。
翌日。足取り軽く学校へと向かっていた。連日の雨だったが、傘に当たる雨の音が心を落ち着かせるようだ。文化祭が近いため午後は授業が無くその計画に費やされるのだが、不安はなかった。昨日のうちに相談ができていてよかった、本当に。
午前の授業の間もクラスメイトの何人かはそわそわとしていた。文化祭を本当に楽しみにしている人がいるものだ、と呑気に考え事をする余裕があったことには自分でも驚く。昼休みも終わり、午後の始まりを告げるチャイムが鳴ると、担任の山崎が教室に入ってきた。学級委員長と何やら会話をして、自分は教室の後ろへ椅子を持っていき座った。どうやら委員長が話を進めるらしい。委員長は器用な人だと誰かが言っていたのを覚えている。文化祭の計画も、滞りなく立てていくのだろう。
「皆さん、文化祭でこのクラスが何をやるのか決めたいと思います。何か意見はありますか」
真面目な口調で委員長が皆に問いかけると、喫茶店、とか、お化け屋敷、とか色々な意見が挙がっていく。しかし、予算が少ないためにあまりお金をかけられないらしく、お店をやるのは無理だということになった。それから、文化祭へ乗り気な人達の意見の出し合いで、クイズ大会をやるのが良さそうだという結果になったようだ。その後はクイズの内容を作る班、内装班、外装班、というように分担によって班分けがされていく。私はどの班でも良いという希望にしたところ、外装班に振り分けられた。クラスの人達が細かい連絡事項や作業工程を決めていき、計画が出来上がったところで解散した。
私は、外装に使うためダンボールが余っていれば教室に持ってきて欲しいと頼まれていたので、美術室にある捨てようと思っていたダンボールを取りに教室から出た。ところが、残っている生徒もまばらになった教室から山崎が出てきて呼び止められてしまった。
「梅田」
こんな風に呼び止められるのは何度目だったか。今が一番気楽に振り向けるのだけは確かだった。
「はい、何ですか?」
普段と違って、あまり噛まなかった。気持ちの問題とは存外に大事なものらしい。
「文化祭でクラスに馴染むよう言ったはずだが、今日は自分から発言することも無かったし、何かする素振りが見られない。どうするつもりだ?」
「これから、頑張りますよ」
即答すると、山崎は面食らったような顔をして、そうか、とだけ言って教室へと戻っていった。適当に聞き流すというのは山崎に効果があったようだ。喜雨さんに報告したい。傍目には些細なことかもしれないが、私にとっては心持ちが大いに違う。今日も雨が降っているし、喜雨さんはテラスにいるはず。さっさとダンボールを取って教室に置いてしまおう。
ひんやりとした空気で満たされたテラスへと足を踏み入れる。早足で事を済ませたので少し息が上がってしまっていた。深呼吸をしたのち、後ろから二番目のガラス席へ向かう。
「あ、あの、こんにちは」
昨日と変わらず、喜雨さんは本を読んでいた。私に気付くと、顔を上げてこちらを見上げてくる。
「昨日振りだね、梅田さん」
特に驚いた様子もなく、本を閉じて返答してくれた。
「えっと、相談事ではないのだけど、その、言いたいことがあって」
喜雨さんの向かいの席に座りながらそう言う。
「うん、構わないよ。ぜひ聞かせて」
笑みを浮かべながら続きを促してくれたので、私は話し出した。
「今日も、山崎先生からクラスに馴染めって言われたけど、すぐに返事をしたら立ち去っていったんだ。いつもは色々言われるのに……喜雨さんが気にするなって言ってくれたおかげだよ」
少し興奮気味に報告すると、相槌とともに良かったね、と言われる。
「梅田さんの雰囲気が変わっていたから、先生も強く出られなかったんだね。山崎先生は特に、反抗的な態度を取らなそうな生徒に対して文句をつけてくる嫌な奴って噂もあるし……効果てきめんだったかな」
口元を緩めて嬉しそうに喜雨さんは語っている。私の雰囲気が変わったというのは本当だろうか。
「雰囲気、変わったのかな……自分ではよく分からないけど」
心の内に変化があったのは確かだが、それだけで人から見える姿が変わるものなのか。
「見違えるようだよ。昨日と比べて、今日は随分と活き活きしている」
そこまで変わっていたとは気付かなかった。
「その、ありがとう。初対面の人なのに、話を聞いてくれて、アドバイスもくれて。本当は、少しでも聞いてもらえたら気分が晴れるかなって思っていただけなんだ。でも、まさかこんなに気持ちが楽になるなんて……」
他人を気にせず自分らしく生きることがこの先はできる、それはとても心強いことだった。
「どういたしまして。力になれたのなら光栄だな」
喜雨さんは、外の雨を眺めながら続ける。
「人の背中を押す言葉というのは、初対面かどうかは関係がないよ。ほら、本に励まされたとか偉人の名言に救われたとかいうこともあるしね。重要なのは本人にとって必要かどうかなんだ。僕が君の助けになったと言うなら、何よりだ」
「文化祭も、気負いせずにできそう……ありがとうって何回言っても言い足りないかも」
笑いながら喜雨さんにそう告げる。
「君ならきっと大丈夫。応援してるよ」
また励まされる言葉をもらってしまった。私を助けてくれたこの人の「応援」は大きな力になるだろう。




