冬・第三話 喜雨の真実
目が覚めるとキラキラの冬晴れ。残念だな、と感じたのは秘密である。今日は担任に進路調査票を渡しに行こう。紙をしっかり鞄に入れた。家を出る前にマフラーを巻き、きちんと手袋をした。寒いのは嫌いではないが、防寒は必要だ。通学路の水たまりは凍ってしまっている。避けて歩こう。意外に凍ってしまっている場所が多く、学校に辿り着くのに苦労した。
午前中は忙しく職員室へ行く暇がなかったので、昼休みの間に、と廊下を歩いていた。職員室は玄関の近くにあり、中へ入らないと外と同じくらい寒い。足早に室内に入ると、暖房の暖かさに包まれた。担任は……デスクにいる。無駄足にならずに済んだ。
「先生、これ提出します」
そう呼びかけて進路調査票を出す。ただ会社員、と雑に書かれているものだ。先生は怪訝そうな顔をした。
「もう少し時間がかかるかと思っていたが……どういう心境の変化だ?」
「……僕は何も知らないって教えて貰ったので」
先生は良く分からない、という顔をしていたが、提出する物は提出した。これで文句はないだろう。
「では、失礼します」
特に何を言われることもなく、そのまま立ち去る。気分は穏やかなもので、廊下から差し込む太陽の光を温かく感じていた。
最初に喜雨さんに会った日から長らく雨が降らなかった。話したいことがあるのに。乾燥した日が続いて天気予報にも雨のマークは見られない。普段なら予報が外れると嫌なものだが、今ばかりは外れることを願っていた。今日もダメか、と帰りのホームルームを聞き流していると、窓に水滴がつくのに気付いた。外との温度差でできた結露かと思ったが、違う。雨が降っている。それを嬉しく思いながら、ざわつく教室を後にした。
テラスの前まで来ると、迷わずドアを開ける。まだ小雨ではあるが、降っている内に入るはずだ。きっといる。後ろから二番目の席へゆっくりと近づく。
「どうも」
僕が喜雨さんの姿を確認すると同時に、挨拶をされた。タブレットを置いて、喜雨さんは話しかけてくる。
「久しぶりだね」
「はい、お久しぶりです」
座りながら軽く返す。
「進路調査票は出してきたの?」
覚えていてくれたらしい。
「提出しました。喜雨さんに会った次の日に」
そう答えると、喜雨さんは良かったね、と笑ってくれた。それから一息ついて、口を開く。
「僕はこれから、色んな勉強をしようと思うんです」
へぇ、と喜雨さんは柔らかく相槌を打つ。
「今の目標は、沢山のことを知ることです。そしていつか、夢を持てたらいいと、思います。色々な挑戦をして、多くを経験して。こんな風に考えられるのも、喜雨さんのおかげです。今まで自分を肯定して貰ったことは無くて、諦めることは無いって言われたのが、嬉しかったんです。だから、改めて、ありがとうございます」
お礼が言いたかった。ほんの少しの言葉ではあったけれど、僕に目標を持たせてくれたことを、とても喜ばしく思っていたのだ。
「どういたしまして」
一言だけ、喜雨さんはそう言った。その声は純粋に喜んでくれているようで、喜雨さんに相談して良かったと思う。
「雪城くんの悩みは、解決した?」
「しました」
もし、相談をしていなかったら、悩みに囚われて見えるはずのものも見えなくなっていたかもしれない。
「そっか。良かった。お願いしたいことがあるんだけど……いいかな」
「はい。何でしょうか」
何か僕に力になれることがあるなら、やってみたいと思う。
「ありがとう。お願いは…………」
そこまで言って、喜雨さんは息を吸い落ち着いてから言葉を続けた。
「次は君が、誰かの助けになってくれ、だよ」
その言葉のままでは意味が良く分からず、首を傾げる。
「それはどういう……?」
「今から説明する。その前に、名乗らせて欲しい」
唐突に無表情になり、雰囲気の変わった喜雨さんは、ゆっくりと名乗った。
「アタシの名前は、栗原知鶴。知鶴と呼んでもらいたい。改めてよろしく」
喜雨さん改め知鶴さんはそう言ってセミロングの髪をかき上げた。
「雪城くんにやってほしいのは、次の喜雨になることだ」
次の喜雨、とはどういうことだろうか。
「喜雨の役目は、雨の日にテラスに来てこの席に座り、悩み事を持った人が現れたら、その人の相談役になること。そして、そいつの悩みが解決したら、喜雨を引き継ぐよう頼む」
それはまるで、今のようだ。そう思ったのが顔に出ていたのか、知鶴さんは続ける。
「つまり、今のアタシの役割をやって欲しいってことだ。この相談役にはルールがあるから、それも伝える」
彼女は何かを思い出すように話し出した。
「最初に言ったが、雨の日にはテラスに来ること。それから、喜雨、と名乗ること。あくまでも相談役は相談役でしかあってはならない。ただ、解決した後はきちんと本名を名乗ること。それと、礼儀正しく、友好的に接すること。相手に威圧感を与えないように。そして、悩みが解決したら相談役を引き継ぐよう伝えることだ。自分の悩みを乗り越えた者ならば、誰かを助けることができる……ということらしい。言うべきことは伝えたが、何か質問はあるか?」
言っていることは大体わかった。これはつまり。
「知鶴さんも誰かに助けられたってことですか?」
そう聞くと知鶴さんは懐かしそうに口を開く。
「そうだ。アタシの先代の喜雨は、涼野爽太って奴でな。あんまり愛想はないけど優しい奴だよ」
何だか嬉しそうだ。というか、涼野君もここに来たことがあったのか。驚いた。言われてみると、彼は夏ごろから元気そうになった気がする。その当時の喜雨のおかげなのだろう。
「悩みを打ち明けた側が、次の喜雨になってるんですね……」
「そういうことだ」
なるほど、お願いの内容は分かった。だが。
「僕にできるでしょうか」
不安要素はそこだ。知鶴さんほどの頭の良さは僕にはない。誰かの助けになれるだろうか。
「その点は大丈夫だ。アタシも含めた歴代の喜雨の助言も聞いたりできるからな。今度、皆のことを紹介しよう。性格はバラバラだが良い奴らだ」
それは頼もしい。僕にもなんとか出来そうだ。
「ちなみに、雪城くんにテラスに来るようすすめた奴も、何代か前の喜雨だ。確か春ごろだったと言っていたな」
「びっくりです」
あの、本を沢山持っていた人か。確かに優しそうな人だったが、驚くことには変わりない。僕も喜雨として誰かを助けられるのなら、やりたい、とそう思った。
「……喜雨の役目、やります」
そう宣言すると、知鶴さんは、きっと出来る、と言った。
「じゃあ、もう帰るか」
和やかな雰囲気の中、知鶴さんが切り出した。寒いところに長居する理由もない。素早く立ち上がった知鶴さんが歩き出して言う。
「何してるんだ。ほら、行こう」
事もなげに言われたそれが嬉しくて、マフラーで口元を隠して彼女を追いかける。歴代の喜雨の人達に会うのも、楽しみだ。外は雪が降り始めていた。
季節は巡り、雪解けが訪れるだろう。そして雨が見守る中で、きっと誰かが救われる。繰り返し、繰り返し。雨が伝える想いは、いつまでも。




