秋・第二話
テラスへの道を進むと、段々と人の話し声は遠くなっていった。雨の日のテラスにこんなにも人気が無いとは。まあ、独立した建物になっていて、傘をささなければ濡れる、となればそんなものか。テラスの前まで来ると、折り畳み傘を取り出す。パチリと音を立ててオレンジ色が目の前に広がった。それをさして入り口まで進む。ドアの前に着くと傘をしまって、テラスの中へと入った。そこはひんやりとした空気に包まれており、思わず身震いをする。こんな雰囲気では幽霊の噂が出るのも無理はない。あたりは静まり返って……いや、何か聞こえる。まるで人の息遣いのような、音が。恐る恐るテラスの中を進む。幽霊なんて、まさか、本当に……。そして、見つけてしまった。後ろから二番目のガラス席に。幽霊が、寝ていた。
「えっ……」
幽霊って寝るのだろうか。なんというか、寝息たててるし……生きてるよな、コレ? え、幽霊なの?
「あ、あの……」
混乱したままで声をかける。
「……ん?」
ぱち、と幽霊が目を開いた。
「うわあ!」
声をかけておいて起きたことに驚いたし、ついでに大声で叫んでしまった。アタシの声にびっくりしたのか、幽霊は目を丸くしている。この反応は、やっぱり人間?
「その……あなたは、噂の幽霊と何か関係が?」
とりあえず本人に確認しておこう。多分違うと思うけど。見れば見るほど普通の人間に見えるし。
「違うけど……」
冷静さを失わない幽霊もどきは否定をして、とりあえず座るようにすすめてきた。立ったまま話すのも変だし、大人しく従っておくことにしよう。少しの沈黙が二人の間に流れたのち、向こうから切り出してきた。
「雨の日にここへ来るなんて珍しい……何か用事でも?」
眠気が残っているのか、多めに瞬きをしながらそう聞かれた。
「特別なことは何もないけど、ちょっと一人になって考え事がしたいと思って……えっと、本当に幽霊じゃないんだよね?」
先程否定されたばかりだが、気になるものは気になる。幽霊らしくは無いが、普通の生徒なのだとしても、こんなところで一人でいるのは随分変わっている。
「幽霊ね。そういう噂があるのはよく知ってる。期待を裏切るようだけど、生身の人間だよ」
笑ってそう返される。信じられないなら握手でも、と提案されたので触ってみるとほのかな温かさを感じた。やはり幽霊ではない。少なからず安堵していると、名前を教えて欲しいと言われた。拒否する理由は無い。
「アタシは栗原知鶴」
「栗原さん、か」
「知鶴でいいよ。他の人はそう呼ぶから」
同じくらいの年の人に栗原さんと呼ばれるのは何だかむず痒いし、呼ばれ慣れているものの方がいい。
「え?……まあ、本人がそう言うなら」
多少の戸惑いを見せたものの、受け入れられたようだ。ついでに相手の名前も聞いておこう。
「あなたの名前は?」
「喜雨と呼んで欲しい」
渾名ということでいいのだろうか。フルネームで名乗らないとは変わった奴である。そう考えていると、喜雨は続けて口を開いた。
「ところで、知鶴は悩み事があるのかな」
こちらの目を見て、どこか確信を持っているように言われた。一人で考え事がしたくて、なんて言ってしまったし、その考えに辿り着くのも最もだ。実際に悩みもある。
「悩みなんてないない。ただ、青春っぽく雨の中で黄昏てみたりしたかっただけだし?」
笑いながらそう答えた。アタシは悩みを話さない。それが、明るく優しい栗原知鶴のあるべき姿だからだ。もしもここで話をして周りの連中に、あたしが常に演技をしているということが露呈したら、今までの努力が水の泡である。
「……本当に? その割には、思いつめたような顔をしているように見えるけど」
「…………気のせいじゃない? アタシは毎日楽しく生きてるんだから」
見透かされたような感覚に、一瞬返答が遅れてしまった。この喜雨と話し続けるのは不味い気がする。ペースを乱されてしまっていて、仮面が剥がれてしまいそうだ。
「なら良いんだ」
意外にも、喜雨はそれ以上食い下がるようなことはしなかった。追及してくるでもなく、喜雨はただ何気なく窓の外を見詰めている。
「喜雨くんは、どうしてここに?」
話の途中で立ち去る訳にもいかず仕方なしに質問をしてみると、少し悩んだ末に答えが返って来た。
「……雨が降ってるから」
意味が分からない。
「雨じゃない日は、テラスにいないってこと?」
自分なりの解釈のもとで聞くと、喜雨は頷いた。
「逆に、雨の日ならいつもいるよ。雑談でもしたくなったら、また来るといい。ここで話したことは他言無用を約束する」
やはり、喜雨はアタシが猫をかぶっていることに勘付いているのではないだろうか。そうでないなら、他言無用などとわざわざ言わない気がする。
「考えとくね」
言いながら席を立つ。そして、帰りやすい空気まで提供されていたことに、テラスを出てから気が付いた。
テラスを訪れてから数日、ずっと調子が出ないままだった。喜雨に言われたことを思い出す。本当に悩みがないのか、と面と向かって聞かれたことで、自分の中で燻っていた感情を意識してしまうのである。アタシは、何のために明るく優しい人物を演じているのだろう。どうしてこれを始めたのだったか、もう思い出せない。笑顔を貼り付けるのが当たり前で、中身を見せてはいけないと常に考えているのだ。それは自分のため、だったはずなのに、こんなにも毎日を疲れ果てて過ごすのなら、意味が無いのではないだろうか。いっそやめてしまえたら、もっと楽に生きられるのかもしれないが、染みついた習慣というものは恐ろしい。やめ方が分からないのである。人に話し掛けられれば、そいつに合わせた自分で対応してしまう。アタシはもう、本当の自分を忘れてしまったのかもしれない。
このままでいい、と思う気持ちと、自分を取り戻したい、という気持ちがせめぎ合う。仮初の自分で在り続けることに、何の意味があるだろうか。そもそも、迷っている時点で心は決まっているのだろう。自分を偽ることに疲れたアタシは、仮面を捨てたいと思っている。その気持ちを、自覚してしまった。喜雨に出会ったことも、何かの縁かもしれない。廊下の窓に打ち付ける雨を見ながら、足はテラスへと向いていた。




