春・第一話
桜を散らす雨が降る。濡れた地面に柔らかな花弁がひらり、ひらりと落ちてゆく。花を散らした桜はいずれ、鮮やかな緑の葉をつけるだろう。
生徒達の喧騒が遠くに聞こえる。メインの教室がある建物とは少し離れた別棟にあるこの美術室を訪れる者はほとんどいない。本来ならばいるはずの美術部員も幽霊部員ばかりで、現在この部屋にいるのは優香一人だった。降りしきる雨が窓ガラスを打つ音を聞きながら、キャンバスに向かって筆を走らせる。使い込んで様々な色の跡が付いているパレットに、やせ細ったチューブから絵の具を搾り出した。そして、愛用している筆とミニバケツの水を使って、思案しながら色を作り出していく。気に入る色が完成したら、思いのままにキャンバスを彩るのだ。
優香は水彩画を描くのが何より好きで、いつも暇さえあれば絵の具をいじっていた。だから、この学校へ入学した時も、美術部へ入部することを決めていたのだ。いざ入部しようとすると、今ここの美術部は廃れてしまっていて、全然人がいないことを知った。だが、優香はそのことをむしろ嬉しく思ったである。誰も居ないのなら、何の気兼ねもなく自由に絵が描けるじゃないか、とそう感じた。非常に内向的な優香にとって、人に会わずに済むことは喜ぶべき要素であった。こういうわけで、放課後の美術室でだけは自分の世界に浸ることができたというわけだ。
ふ、と一つ息を吐く。目の前には色鮮やかな森の絵が広がっていた。
「うん、今日もいいものが描けた」
目を細めながらぽつりと独り言をこぼす。気が付くと外の雨はいよいよ本格的に降り出していた。もっと酷くなる前に今日はもう帰ろうかな、と思い画材道具を片付け始める。まず完成したキャンバスを安全な位置へ移動させなくてはならない。汚れてしまったらせっかくの絵が台無しだ。
「よいしょっと」
大きなキャンバスを傷つけないように慎重に運び、部屋の端に置いた。それから、バケツやパレットを一緒に持ち、水道水で念入りに洗っていく。静かな部屋にカチャカチャと道具がぶつかる音が響いた。最後に、乾きやすいよう窓の前に綺麗に並べれば片付けは完了だ。まとめていた長い髪をほどき、鞄を持って廊下へと出た。春になったとはいえ、雨が降っていると肌寒く感じる。美術室の鍵を忘れずかけると、足早に歩きだした。
美術室を含めた、特別教室の鍵は使い終えたら職員室に返却することになっている。しかし、職員室へ向かう足取りは次第に重くなっていった。優香は自分のクラスの担任教師のことが苦手だ。その中年の男性教師は自分の出世のことばかり考える人間のようで、人前で上手く話すことができない優香のことを疎ましく思っているのは、なんとなく分かっていた。そんなことを考えていると、いつの間にか職員室の前に着いてしまっていた。担任が不在にしていることを祈りながら引き戸に手をかける。一度、深呼吸をしてから戸を開けた。
「し、失礼します……」
そう言いつつ部屋の中に足を踏み入れると、どうやら担任はいないようだ。数人の教師がパソコンや書類とにらめっこしているだけである。これは都合がいい。さっさと鍵だけ返して立ち去ろう。指定の棚にそれを置いて職員室から出ようとした時だった。
「梅田じゃないか。部活から帰るところか?」
担任の山崎がちょうど帰ってきてしまった。ああ、なんてタイミングの悪い……優香は心の内で己の運の無さを呪う。
「…はい、今から、帰ります。せ、先生、さようなら」
早く話を切り上げて帰らなくては。面倒なことになってしまう。はやる気持ちのままに、一歩踏み出した。
「ちょっと待ってくれ。梅田に会った時に言おうと思っていたことがある」
遅かった。願いむなしく引き止められてしまう。正直言って山崎の話は全く聞きたくなかったが、無視をするわけにもいかない。ゆっくりと振り向いた。
「な、何ですか」
言われることは予想できる。手短に終わらせて欲しい。山崎は呆れた顔で話し出した。
「前にも言ったと思うが……梅田はクラスに馴染めていないだろう。今度ある文化祭で何とかクラスに溶け込んでくれ。浮いている生徒がうちのクラスにいるのは困りものだ」
自分の評価に響くから、と後に付け足しても違和感の無い口調である。生徒を心配する教師の顔ではない、声ではない。
「そ、その……が、かんばります……」
無難な返答。ここでこれ以上話すつもりも、提示できるような具体的な解決策も無かった。
「頼むぞ。では、気を付けて帰るように」
言うだけ言って去るらしい。
「……はい。さよう、なら」
適当に挨拶を返して、冷たい廊下へ出る。叩き付けるような雨が降っていた。
ぐるぐると、考え事をしながら長い廊下を歩く。文化祭……この学校では、新しいクラスでの親交を深めるためという理由で春先に学校全体で取り組むお祭りがある。確か去年は、学級委員が割り振った作業をこなして、ろくに人と話さずに終わった記憶がある。文化祭でクラスに馴染め、とは無理を言われたものだ。協調性を持つように、なんて内容のことは去年のクラス担任にも言われたことがあったが、山崎はそれ以上に再三言ってくる。余程優香のことが目に付くのだろう。山崎のクラスには異端児がいてはならないようだ。どうしたものか……優香は人と話す時、緊張して噛んでしまうし、頭もよく回らない。何を話せばいいのか分からなくなってしまう。これではクラスに馴染むのは一苦労、というか出来る気がしない。そんな風に悩んでいると、テラスまで来ていた。沢山の椅子と机が置かれていて、自由利用が出来る大広間だがガラス張りで日光のよく入る席もあったりしておしゃれだからと、生徒達からはテラスと呼ばれている。晴れの日は多くの人が食事をしたり、勉強をしたり、お喋りをしたりと、賑わいを見せるのだが、今日は雨。がらんと静まりかえっている。ここは他の教室から遠いし、雨だと冷えるからと訪れる人がいないのだ。考え事をしながらこんなところにまで来てしまった。ざあざあと雨音が大きく響くように感じる。そういえば、雨の日のテラスには妙な噂があった。雨の日にだけテラスに現れるものがあるらしい。幽霊だとか、色々な説が流れているが真偽は不明で、よくある学校の怪談話の類だと思っている。
「…………」
いや、まさか。幽霊だなんて、いるわけがない。けれど確かめてみたい好奇心もある。そう思いつつドアを開けて中へ入る。テラスの中は見渡せるし、よく見えないのはガラス張りの席くらいだ。十席ほど設けられているそれを一つずつ確認していく。ここはいない、ここも何もない、あ、消しゴムが落ちている。落し物はあったが、変わったものは見受けられない。何だ、別になんとも無いじゃ……。
「……っ!」
後ろから二つ目の、ガラス張りの席に人がいた。この学校の制服を着ていて、本を読んでいる。何も言えずに固まっていると、その人はこちらに気付いたらしい。本から顔を上げた。
「あれ、雨の日にテラスに来るなんて珍しい人だね」
話しかけられた。まさか、本当に、幽霊が。
「……しゃっ、しゃっ、喋った……!」
どうしよう。幽霊を見ちゃった。生きて帰らないと。
「え、えーっと……?」
幽霊が困惑している。今のうちに何か言わないと……!
「の、呪わないで下さい!」
ここ最近で一番、腹から声が出た。生存本能は凄い。幽霊をちら、と見ると、困り顔をしていた。
「ええ……?そんな物騒なことしないよ。何でその発想になったのか分からないけど……」
呪わないタイプの幽霊だったようだ。とりあえず生き延びた。よかった。落ち着いたところで、質問をしてみることにした。
「幽霊、何ですか……?」
すると幽霊は、目を丸くした。
「……うん?」
何だろう、この反応は。幽霊は何やら考え込んでしまった。しかし、すぐに口を開く。
「何を勘違いしているのかは知らないけど……幽霊じゃないよ?ほら」
幽霊は困ったように笑って手を差し出してきた。触ってみろということらしい。幽霊の顔と手を交互に見つめながら、恐る恐る触れる。色白の手には確かな体温があった。




