ゼーマンの宿屋
次の日の朝、波塁は、ゼーマンの宿屋へ出かけていった。
結火を連れていくか迷ったが、経験を積ませる事が必要と考え一緒に行く事にした。カミンスキ家を出て、大通りを左に進み城壁の方に10分ほど歩いた所に、ゼーマンの看板が見えた。
白いレンガの壁と赤いレンガの柱で、古いがしっかりした作りの3階建てで、入り口の扉にはステンドグラスがはめ込まれている。
扉を開けて波塁が入っていくと直ぐに、中年の女性が声を掛けてきた。
「いらっしゃいませ、朝食ですか?」
「いえ、ご主人にお会いしたいのですが」
修道士の服装を見て客ではなく、教会への寄付のお願いと思われたのか、急に無愛想になった。
「あの隅にいますよ」
女は店の奥の方を、アゴで指した。
女が指す方向を見ると、太って頭の禿げ上がった男が、帳簿を見ながら計算をしている。年齢は40才ぐらいか。
波塁は、その男の前で立ち止まって声をかけるタイミングを計っていた。
男は顔を上げないまま話しかける。
「どなたですか、教会への寄付なら他を当たってください」
「ユリアの事で来ました」
波塁は、単刀直入に伝えた。
男は顔を上げ、波塁の顔を見て、
「あんた、この辺りの顔付きじゃ無いな。なるほど、ユリアは教会に居るって事か、いくら教会でも許されないと思うがね」
「灰の森教会の波塁と申します。ユリアを自由にして下さい。金貨5枚と聞きました、2年間も働いたのですから十分元を取ったのではないですか」
先程の女が口を挟んだ、
「バカ言っちゃあいけないよ、あの娘には、毎食キチン食べさせて、服だって買ってやってどれだけ金かけた事か」
「あの娘の親が金貨5枚貰っても、ウチは金貨10枚で買ったんだ。10年働く契約になっているんだから、証拠に証書を見せてやるよ」
といって裏に引っ込んで行った。
「あと8年残っているから、面倒を起こした事は大目に見て、金貨8枚持って来れば許してやろう。どうする?」
「金貨は持っていません、何か他の方法があるのでは」
波塁の言葉を遮り、机の上に積み上げられた硬貨に目をやりながら、
「ここにあるのは、銀貨と銅貨だ、銀貨を1枚積み上げるのに、俺たちは命を削っているんだ。ハハハ、神に祝福されている者には分かるはずがないか」
男は、上目遣いで笑いながらそう言った。
奥から女が、紐で縛って丸めている書類を持ってきた。書類には、10年契約と書いてあった。
「これには、公証印が押されている。今日の午後役所に行って訴えるつもりだ。あの女が捕まるのも時間の問題という事だ」
男はそう言って、また帳簿の方に向かった。
(この国では人身売買が公に認められているというわけか、契約を守らないユリアに非があるということになるな)
「私は、金貨を持っていません。しかし、私は神の力をお借りする事が出来ます」
波塁がこう言うと、男は笑って聞いていたが、女が急に怒り出して、
「神に何が出来るって言うんだい、神が本当にいるなら、アレシュは、」
女がここまで言ったところで男が、
「ヤメロ!」
と怒鳴った。
しばらく沈黙が続いた後、波塁が口を開いた。
「よろしければ、アレシュの事を・・・」
女が突然泣き始めた。それを見て男が口を開いた。
「うちの息子なんだが二週間ほど前に戦争から帰ってきた。ずっとベッドの上さ、それからこいつは毎晩泣いてる」
男も悲しそうに俯いた。
「私ならなんとか出来ると思います」
はっきりと答えた。
男と女は同時に顔をあげ、波塁の腕を掴んで、
「あんたは医者かい?。今まで三人の医者に診て貰ったがどうにもならなかった、もし治してくれるならなんでもする」
アレシュは、後悔していた。
去年の10月に18才になり、直ぐに志願兵として戦争に向かった。一家に男一人の場合、徴兵は免除される、ひとりっ子のアレシュは、徴兵の対象外であったが、友達の三人は全員徴兵されていった。アレシュは、取り残されるのに耐えられなかったのだ。
アレシュの配属された砦は、最前線にあり、もう8ヶ月も膠着状態にあった。新兵に出来る事は限られている。槍を持たされて城壁の上で警備だ。異変があれば直ぐに上司に報告する。
その日アレシュは、夜間警備を行なっていた。いつものように静かな夜だったのに、突然矢が降ってきた。そして、運悪く防具の隙間、わき腹の下の方に矢が刺さった。今思えば大した傷では無かったのだが、パニックになり城壁から城内に落ちてしまった。
ベッド上で気付いた時には、右足の感覚が無かった。そして、物資を輸送してきた馬車が国に戻る時、他の負傷者と共に帰国した。長時間馬車に揺られた為か、ここに着いた時には、両脚が動かないことに気づいた。
それから二週間ずっとベッドの上にいる。
窓の外は裏通りになっていて、今日も、元気な子供たちの走り回る声が聞こえる。
(ああもう、走る事は出来ないんだなあ)
何人かの医者に診て貰ったが、足への神経が切れているのでもう歩くことは出来ないと言われた。
(母さんの悲しそうな顔を見るのが辛い、これからどうやって生きていけばいいのだろうか)
なんで見ず知らずの男を信じるのだろう、男は、波塁を案内しながら苦笑した。厨房の後ろのドアを開けると通路になっていて、左右と奥にドアがある。通路をまっすぐ進んで奥のドアを開けると裏通りだ。男は左のドアを開けて中に入った。
アレシュは、ドアの音に気づいて顔を向けた。一人では体を起こすのも容易ではない。両親に続いて、修道士らしき男が入ってくる。
波塁は、黙ってベッドの横に跪き、
「神よこの男に祝福を」
とだけ言って立ち上がった。
アレシュは背中が熱くなって来るのを感じた。その熱さがだんだん下半身の方へ広がってきて、腰から尻そして感覚が無くなっていた足へと広がっていった。アレシュは戻ってきた足の感覚に驚いて、反射的に体を起こした。膝曲げてみる。足の指を動かしてみる。動く。
アレシュはベッドから足を下ろし立ち上がろうとするが、流石に自力ででは立てずに、波塁に支えられて立ち上がった。男と女は、目の前の光景が信じられなかった。すぐに支えるため手を出そうとしたのをアレシュは手で制して一旦ベッドに腰掛けた。波塁の方へ振り向いて、
「今のは、今のは何でしょう」
「自己紹介がまだでしたね、私は、灰の森教会の波塁と申します。あなたは神の奇跡を体験したのです」
波塁は男に向かって、
「ユリアの話がまだ終わっていませんでしたね、戻って続きをやりましょう」
三人は、部屋を出て先ほどのテーブルに戻ってきた。男は波塁に椅子に座るよう促し、二人と波塁はテーブルに向かい合わせで座った。
男は、ユリアの証書を手にとって
「神はこんな俺でもお見捨てにならなかった、これは、好きにしてくれ」
と言ってユリアの証書を波塁に渡した。
「俺は、ヤロミール・ゼーマンという、こいつは女房のヤルシュカだ、俺に出来る事があったらなんでも言ってくれ」
ヤロミールは、随分苦労してここまで来た。頼れるものは金だけだと信じて生きてきた。神の存在を己の心から消し去る事で、今では汚い事をしても罪悪感に苛まれる事も無い。
息子のアレシュは、まだ幼く汚い事は知らずに育ってきた。
(汚い事は、息子には引き継がないで済むようにしなければ)
そう、心の中で誓ったのであった。
一方、結火は、宿屋の前で待っていた。背が高く、美しく異国の雰囲気を持つ彼女は、自然に通行人の注意を引いていた。
波塁が宿屋から出て来ると、結火は、
「ここはあまり楽しい場所ではありませんでした」
とだけ言って、波塁に付いて宿屋を後にした。
それから二人は、グルニチェにある灰の森教会へ向かった、場所はヤクブに聞いていたがなかなかたどり着けず。結局30分もかかってたどり着いたのだが、入口に板が打ち付けられており、入れないようになっていたので諦めて帰ることにした。
帰る途中で結火が手を握ってきた。波塁が驚いて結火の方を見る。
「え、どうして」
「待っている間暇だったので、アストラルボディをコントロールする練習をしていました。体の一部分に密度を集中して、体の一部であれば肉体のように出来るようになりました。」
なるほど、しかし、手を握る以外に説明する方法があったのでは、などと考えていたがちょっと嬉しかった。
カミンスキ家へ戻ると、ヤチェックへ今日の経緯を話した。また、教会については、どのようなことになっているのかヤチェックが調べてくれる事となった。
その後、使用人にお願いして、ユリアへの手紙を書いてもらった。ゼーマンの宿屋には話がついたので心配らない事、住むところが決まるまでもう少し待つように伝えた。