レナータ・カミンスキ
タルシェフ村は、都市を結ぶ街道沿いにある。街道沿いには、旅人を癒す宿屋や、商店などが建ち並び、農業よりも商売中心の町である。
東からこの村へ入ってくると、正面にレンガ造りで3階建ての立派な建物が見える。村の入り口からこの建物まで両側には商店が並んでいる。
その建物は、ロベルト・マズルの店。この村に入る食料、衣料など手広く商売しておりこの村の名士でありそこそこの金持ちであった。
ロベルト・マズルの店の裏は山になっており、街道はこの店の前で左に折れ南に向かって続いている。
ロベルトは、昨年60歳になってそろそろ息子に店を譲ろうかと考えている。
そのため、店の裏山、少し小高くなっている所に、隠居のための離れを5年前に建てている。その建物は小さく、それほど立派ではないが、一段と高い場所にあることから眺望がよく、街道が遠くまで見渡せる。
ロベルトはそこに住むことを楽しみにしていたが、もう1年もう1年とだらだらと引退は先延ばしになっていた。昨年には、娘が嫁ぎ先より帰ってきて離れに住んでいることから、そこに住むのはもう少し先になりそうだ。
レナータは、一日中部屋の中で過ごしていた。
楽しかった少女時代。絵も描きたかったし、実家の商売の手伝いも楽しく、やりたいことがたくさんあって、友達が10代で結婚するなか気づけば25才。
そしてとうとう、父の知り合いの商人カミンスキ家の二男と結婚することとなった。
カミンスキ家は、ここから馬車で6時間ほど離れた領主様の町グルニチェにある。カミンスキ家も商売は順調で、既に長男へ店を譲る予定となっており、他国との仕入れ全般は長男が仕切っていた。
二男は、商売を嫌い騎士になることを夢見て、家族の反対を押し切り領主の家臣の部下となっていた。
レナータの結婚生活は3年ほど続き、留守がちだが優しい夫との楽しい日々、その中でも特に楽しかったのは、夫に乗馬を教えてもらい、二人で野山をかけることであった。お気に入りの場所は、北の森を抜け30分ほど行ったとことにある小さな湖で、秋の終りになると白鳥や鴨といった渡り鳥がやってきて羽を休めている。なぜか、狩りをしている人は見かけなくて、鳥たちは、まったりと過ごしている。焚き火をしながらそんな様子を夫と眺めているのが何よりの幸せであった。
そんなある日、乾いた咳がもう半年も続いていたので、町の医者に診てもらうと肺の病であることが分かった。肺の病は必ず死ぬというほどのものでもないが、感染するということも考え1年前実家に戻っていた。
コンコン
「お嬢様よろしいでしょうか」メイドが声をかける。
返事はないが、メイドは構わずドアを開けて中に入った。
部屋に入ると正面に大きな窓がある。この窓からは街道の様子が遠くまでよく見える。
レナータは、毛布を肩にかけて椅子に腰掛け窓の外を眺めていた。窓はあけられており、通りのざわめき・・・挨拶を交わす声、馬車の通る音、鍛冶屋の音などが聞こえている。
メイドはお体に触りますと言って、すぐに窓を閉める。部屋の中は静かになる。
レナータは特に何の反応もなくやはり外を眺めている。いつものことだ。昨日も、一昨日も、毎日繰り返される日常。
レナータは促されるままベッドに入って、白く細くなった左手首を見ながら考える。
風が出てきたのか、部屋の北側にある小さな窓に映る木の枝が揺れているのが見える。
メイドは父母の代からこの家に仕えているので、この家で生まれ子供のころはよく遊んだ。今は昔話もしない。
どんどん痩せていく体、もう長くは持たないことは分かる。
結婚しても子供はできなかった。ここに一度も顔を見せていない夫も、私のことなど忘れているのだろう。
(私が死んでも悲しんでくれる人などいないだろう)
(思えば、何も残せなかった。やりたいことも中途半端だったし、人の役に立つこともしてないし)
(私の人生、何か意味あったのかな)
コンコン
「お嬢様よろしいでしょうか」メイドが声をかける。
さっき来たばかりなのに、なぜまた。
メイドが扉を開け、入ってきたのは、父と母、それから、教会の教主様と知らない男の人。レナータはあわててベッドから起き上がる。
(教主様がもう来られるなんて、まだ死んでないのに)レナータは苦笑した。
ロベルトはベッドに近づいてレナータに話しかける。
「教主様は、目が見えなくなっていたがこの通り治ったのだ」
レナータは教主の方を見た。
(え、あれは、先代の教主様では。確か目が見えなくなって今は息子が跡をついでいるはず)
なんか若返ったような感じもする。
「奇跡をおこなう方が、今日来られた。教会の見捨てられた子供たちも快方に向かっているそうだ」
ロベルトがこう言って、波塁の言うことを聞くようにレナータへ言った。
レナータは後ろ向きになるよう促され、波塁はレナータの背中に手をかざした。
レナータの心に希望の灯がともった。もし、万が一治るのならば、今度は役に立つ人間になる。
〈この者に神の祝福を〉
波塁がこのように言うと、レナータの体の中心がどんどん熱くなってきて、首筋、背中に汗が流れた。
(神様、死ぬと思っていた命、もし御救いいただけるのであれば、今度は人のために尽くします)
レナータこう誓った。
波塁らは部屋を出ると、母屋に戻りロベルトと話をしていた。
「波塁様、娘はどうでしょうか」ロベルトは聞いた。
ヤクブは、思念にて波塁に伝えた。
〈こればかりは神の御心次第です。神の御心は生死を越えたところにあります〉
波塁の言葉をヤクブが伝えた。
「私に何かできることがあるでしょうか、あの、不躾ながら寄付など」
〈できることは、神に祈ることです〉波塁はヤクブに思念で伝えた。
ヤクブは波塁の言葉をロベルトに伝え、それに付け加えて、
「それと、教会の子供たちは食べ物がなく飢えています、出来る範囲で食べ物の寄付をお願いできますでしょうか」と伝えた。
「わかりました、後で運ばせます。しかし、子供たちが飢えていたというのに・・・いまさらお恥ずかしい話です」
ロベルトは、そのように言って、己の行いを恥じた。
波塁は思った、
(この宗教の教義など全く分からないので、伝えるべき言葉が見つからない。そもそも、言葉も話せないのだが・・・・・この先どうしていけばよいのか)
(奇跡の力を目の当たりにした人たちが、やってくるだろう。どのように彼らを導くべきか・・・)
結局この日は6軒しか回れず、教会に帰ってきた。
〈ヤクブさん、お疲れでしょう〉食堂の椅子に腰をかけながら波塁は声をかけた。
〈いや、疲労感はありますが、やるべきことができて20才は若返ったようです〉
ハンナがミントのお茶を持ってきて置いた。
ミントの香りが、疲れを癒す。
〈貧乏な教会でも、ミントだけはいくらでも生えてきて、年中こればっかりです〉
ヤクブは楽しそうに話をする。そして、教会について語った。
約3000年前に最初の預言者、アストリウスが現れ、神の存在を説き、愛や、神の前での平等など、神の言葉を我々に伝えた。
その後、10人の預言者が現れて、合計11人の預言を聖書にまとめている。
聖書は、われわれほぼすべての人々の生き方、ものの考え方の基礎となっているが、最後の預言者が現れたのは、1200年も前の事なので、預言者の顕現されていないこの1200年の間に、聖書という共通点はあるものの解釈の違いなどで、多くの宗派に分かれて行った。
この教会は、灰の森教会といい、450年ほど前にアルテミシアが作った。最盛期にはこの地域を中心に300ケ所以上もあったが、現在は30ほどしか残っていない。
〈全盛期の10分の1になったということですか、その原因は〉、波塁は聞いた。
〈アルテミシア様は、混とんとした迷いの時代に差した。一筋の光のようなお方でした。灰の森教会の教義を一言で言い表すとすれば、目の前に困っている人がいれば、ただ助けること。それだけです。今の時代、自分のことばかり考える人が増えたからではないでしょうか〉
ヤクブはそのように言うとミント茶を一口飲んでから、
〈しかし、預言者・・・いや、波塁様がこの教会においで頂いたということは、神の恩寵とういうべき慶事〉
ヤクブはにこにこ笑いながらそのように言った。
波塁は、この教会の近くに倒れていたのは、神の意図かもしれないと思った。
波塁は、今日のことを思い出しながらベッドに入った。
(分らないことだらけだなあ。しかし、奇跡によってみんなが喜んでもらえることは素直にうれしい。もっと、もっと頑張ろう)
波塁が蝋燭を消して寝ようとした時、眼の端に白いものが見えた。
びっくりして、そちらを見ると背の低いおじいさんが立っていた。
「あなた、だ、誰ですか」波塁はあわてて聞いた。
「驚かせてすまんの。ワシは慧雲雷風双天という」
(いやいや、名前長いでしょ、見た目は日本人、東洋人か?)
「長いから双天でよい」
(自分でも長いと思ってるんだ・・・)
おじいさんの身長は150cmもない。面長で白髪、白髭。長い眉毛が邪魔そう。服装は、白い着物姿で、草履、長めの杖を持っているところなどまるで仙人。
「双天さんは、仙人か何かですか」
「おしいのう、ワシは竜の化身じゃ」
「え・・・まじで」
「まじで」
二人は目を見合わせた。
「よっし、みておれ」
双天は、そういうと目を瞑り、何かを唱え始めた。すると、双天の背後で少しずつ白い竜が現れ始めた。
半透明となった所で、双天が目を開けると竜は消えた。
「わかったか」
「しかし、竜さん・・・さまが何のご用ですか」動揺しながら波塁は聞いた。
「おまえ昨日質問があるとか言っておったじゃろう、だからワシが来てやったのじゃ」
「本当ですか、あ、ありがとうございます」波塁はとりあえず礼を行った。
「はやくしろ、ワシは忙しいのじゃ」
波塁は、今までの出来事に動揺し、何から聞いたらよいのか混乱した。
少し落ち着いてから、
「ここは一体どこですか、なんか時代が違うような気がするし、過去の世界ですか、そもそも地球ですか」
「おお、よし答えてやろう」双天は嬉しそうにそう答えた。
「ここは地球で、時間も前いたところとおなじじゃ、ここの世界地図も季節、日付も同じ、場所は東ヨーロッパあたりというところかの」
「簡単に言うと、数千年前に枝分かれしてできた世界。いわゆるパラレルワールドというやつかもしれん」
「難しい言葉を知っておるじゃろ、情報収集は欠かさんからな、インターネットもしっとるぞ」
波塁は、竜がこんなに気さくなのかと思いながら聞いていた。
双天は、話を続ける。
「この世界はな、科学技術の発展が遅れておる」
「電気、内燃機関、医療、素材、もともと同じ世界からスタートしても、あらゆる点が遅れている。ざっくり1000年ぐらい遅れているのかのう」
「そのかわり、この世界ならではのものがある。それはな、何と魔法なんじゃよ」
「え、子供の時にゲームとかで慣れ親しんだ、魔法の世界、ファンタジーの世界が広がっているのですか」
波塁は、子供時分にのめり込んだRPGの世界を思い出し、この世界の認識が変わった。
「すごいじゃろ、しかし、魔法が科学技術発展の遅れの原因といえなくもない」
「まあ、雷や静電気から電気を実用化し、コンピュータまで作り上げる方がよっぽど魔法よりすごいと思うがのう」
双天は、そのように答えると、次の質問を促した。
波塁は、次のことを聞いた。
「わたしは、修行中に助けよという声を聞いてここに来ました。あなたは、あの声の方ですか」
「いや違うな、あの方は人間、いや、元人間で神霊界におられる」
「魂だけになって、神霊界に行った人間は容易に物質世界には出て来られないので、竜のワシが参上したのじゃ」
「わしは忙しいのじゃ、次で最後の質問とする」
聞けば聞くほど、余計新たな疑問が生まれてきて、次に何を聞いたらよいのかわからなくなり。
「双天様は、毎日おいでいただけるのでしょうか」
「いや、ワシは忙しいのでのう、次いつになるかわからん。おまえはこの世界にて人助けをするように言われたのじゃろ、それなら手助けがいるかもしれんので、少し考えてみる」
「では、もうよいかの」
波塁は、帰っていこうとする双天を引き留めて、
「言葉が通じないのは、どうにかなりませんでしょうか」と聞いた。
双天は、数秒間目を閉じてから、目を開き、
「よし、神霊界からの許可が出た。本来自分で覚えるべきだが特別許可だ。明日から、言葉が通じるようになっているであろう」
「さらばじゃまた会おう」
と言って消えてしまった。