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たすき渡し

作者: 駒棚同志郎

 雪が降る夕暮れのことだ。

 暖房の効いた部屋で図書館で借りた文庫本を片手に暖かいココアを飲んでいると、突然表のドアを叩く音がした。びくりと手が震えてココアがこぼれると読んでいたページに茶色いシミが広がった。表の人物は慌てているのか激しく何度もドアを叩く。私は何か恐ろしい事態に巻き込まれるような気がして、居留守をきめこんだ。しばらく体を固くまもっていると、ドアの向こうから声が聞こえてきた。どこかで聞いたことのあるような男の怒鳴り声だった。

「おい、いるのはわかってるんだ。早く開けてくれ。頼む!」

 その声には切羽詰まったような響きがあり、我が身を守るという理由だけでは見捨てられないほどの悲哀の念を私は感じた。本とココアを机に置き腰をあげると、玄関へと向かった。

 声の主の姿を確認しようとドアの覗き穴から外をうかがって、思わず自分の目を疑った。ドアの先には私の姿があったのだ。今の私と全く同じ服装で、顔だけは取り乱したようにゆがめている。わけがわからなかった。私は混乱のうちに無意識にドアを開けていた。

 私に似た男は滑り込むように入りこむと、すぐにドアの鍵を閉め、さらにチェーンまでかけてしまった。男は、息を切らしていた。

「とにかく上がらせてくれ。話はそれからだ」

 外は雪が降っているというのに、男は靴を履いていなかった。一応の礼儀か靴下を脱ぐと、男は私を置いてさっさと部屋の中に入ってしまった。

 ようやく気を持ち直した私が慌てて部屋に戻ると、男は私の椅子に座り、安堵の表情を浮かべてココアを飲んでいた。合わせ鏡の中にいるような不安定な心地がする。

「これは一体どうなっているんだ」

 私は呟くようにそう尋ねた。ココアを手にしたまま、こちらを向いた男も困ったように眉毛をまげている。

「私もよくはわからん。ただ、私は一度この状況を経験している」

 どういうことだ、と私が視線を飛ばすと、男は表情を変えずに告げた。

「君の立場でだ」



 どうやら私と目の前の男は同一人物で間違いないらしい。先ほどから私の身に起こっている奇妙な体験を、男はそっくりそのまま私の立場で体験したというのだ。実際、彼は私の心情を正確に把握していた。試しに全く関係のないことを頭に浮かべてみたのだが、浮かべたそばから指摘されたのだ。そのときは不愉快な浮遊感を覚えて鳥肌がたった。

 ひと通り、私の済んだ経験を語り終えた男はさらに続けた。

「ここからは君にとって未来の話だ。私にとっては二度と味わいたくない過去だがな」

 ついさっきまで玄関の前で凄まじい悲壮感を漂わせていたとは思えないほど落ち着きはらったもう一人の私は、過去の苦難を語るように私に未来の話を語りはじめた。

「この話を聞き終えた私つまり君は、白い光に包まれることになる。しばらくすると、その光は消えるのだが、目の前には君の部屋ではなく、よく見知った公園が広がっているのだ」

「見知った公園?」

「ああ、図書館横の公園だ。光が消失するとそこにいる」

 図書館はこの家から歩いて十分ほどのところにある。頻繁に図書館を利用する私にはたしかによく見知った公園だ。

 男は窓の外に目を向けて話を続けた。

「そこからは逃走劇だ。公園に立つと何やら怖しい者に追いかけられることになる。徐々に距離を詰めてくる怖しい者から、君の、つまり私の部屋まで逃げ切れたならば、怖しい者は部屋に入ってくることはできないようだ」

「怖しい者とはなんだ? この部屋まで逃げれば本当に安全なのか?」

「怖しい者についてはあまり思い出したくない。とにかく怖しいのだ。だが、ここまで来れば怖しい者が私に干渉することはないということは間違いないだろう」

 雲をつかむような話だが、男の表情は真剣そのもので、実感を伴った説得力があった。

「さて、そろそろ時間だろう」

 男がそう告げると同時に、私の視界に白い光が広がった。



 まったく無地の白光はまばゆく、目を開けていられない。一瞬身体がふっと軽くなったと思えば、まぶた越しに感じる光は徐々に弱くなっていった。

 やがて光が消え、目を開けると赤銅の世界が広がっていた。厚い雲からのぞく赤い夕日が薄く積もった雪を照らしている。ブランコが静かに止まっている。よく見知った公園だった。

 ふいに全身に悪寒が走った。冬の寒さではない。もっと気味の悪い怖しいものが私の魂を削っている。私の存在自体が否定されているような、気を抜いたらどこかへ飛んで行ってしまうような、そのような確かな直感があった。そうか、怖しい者とはこのことか。私の魂を死神が少しずつ刈り取っているのだと、震えあがった。

 直後、私は走り出した。向かうべき場所はわかっている。一刻も早くこの悪寒から解放されたい、ただそのことばかりを考えていた。

 私は走った。雪に足跡が残っても、信号機が赤を指していても、人々が私の姿に驚いても、私はそれらに気づくことすらなくひたすら走りつづけた。止まれば私は消える。確信があった。

 やがて私の住むアパートメントまでたどり着いた頃には私の魂はもうすぐ尽きようとしていた。雪で滑りやすくなっている階段を一段飛ばしに駆け上がる。私の部屋は二階の奥だ。ドアが見えると飛びついて、何度も強くドアを叩いた。こうして止まっている時間がどうしようもなく怖しい。

「おい、いるのはわかってるんだ。早く開けてくれ。頼む!」

 私の必死の声が届いたのか、ドアが開いた。私は滑り込むように身体を入れ、ドアの鍵をしめ、チェーンをかけた。すると、魂の最期の一欠片を刈り取ろうとしていた死神の気配が消えさった。疲労感がどっと押し寄せてきた。

「とにかく上がらせてくれ。話はそれからだ」

 私は隣で呆けたように立っているもう一人の私に声をかけると、ぐしょぐしょになった靴下を脱いで部屋に上がった。

 死神が去ったことに安心すると、自分の身体がひどく冷えていることに気がついた。私は椅子に座ると置いてあったココアを飲んだ。暖かい。削り取られた魂が再び満たされていくのを感じた。

「これは一体どうなっているんだ」

 呟くような声が聞こえてそちらを見るともう一人の私が立っていた。その瞳は小さく揺れている。なるほど、そういうことだったか。

「私もよくはわからん。ただ、私は一度この状況を体験している」

 もう一人の私が私に視線をよこす。

「君の立場でだ」

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