雨の降るこんな日には
雨は足音を消す。雨は匂いをけす。そして、雨は思い出を消してゆく。
降り始めの雨は軽やかに踊る足音のようだ。私はタップダンスを踊る雨の姿を想像する。
「そんなに、お道化なくても大丈夫よ。私だって、いつまでもうじうじしていられないもの」
カーテンを開き外を眺める。突然の夕立に通りの人は大慌てだ。鞄を傘替わりに使うサラリーマン、目線を手で覆いながら自転車を漕ぐ学生、誰もが急ぎ、誰もが焦っていた。
私はカーテンを閉め、ベッドに腰をかけた。足をぶらぶらさせながら今後の予定を考える。
そうだ。雨の中を傘も差さずに歩くのはどうだろうか。きっと、エキサイティングで刺激的に違いない。
私はレインブーツを履くと傘を差さずに外に飛び出した。
雨音は立体音響のように響いている。
憂鬱と思っていた雨の日を楽しいと思える日が来るとは思っていなかった。
雨に濡れるのが楽しみで仕方がない。人生でこんな気分になれることはもうないかもしれない。
私は玄関の軒先から一歩足を踏み出した。
無数の雨粒が顔に当たって弾ける。天然のシャワーは人工的な排気ガスの匂いを纏っていた。
私はスカートの裾をつまみあげ、ひらりひらりと回りながら路上へと躍り出る。
とても気分がいい。ミュージカル映画のヒロインになったようだ。
商店街を駆け抜ける。傘を差した人たちから奇異の目で見られている。
今はその視線すら、羨望の眼差しのように受け取れていた。
「お嬢さん、そんなに濡れたら風邪をひいてしまいますよ?」
スーツ姿の男性が傘を差し出した。男性は、四十過ぎに見える彫りと皺の深い顔をくしゃっとさせた。
男性の体は上着越しでもわかるほど鍛え上げられた肉体をしていた。
「お気遣いありがとう。でも、私は雨に濡れたいの」
「雨に濡れるとどうなるのですか?」
男性は不思議そうに首を傾げる。
「雨に濡れると流せるのですよ。こびりついた汚れも、嫌なことも、何もかも全部」
「それは素敵ですね。私もご一緒させてください」
男性は傘を回しながら手を放す。傘はくるくると回りながら、風船のように空へと舞いあがった。
私は男性の手を取り、くるくると回る。一人で踊るよりも早く回る。
男性のリードは上手だった。私の行きたい方に先に行き、私の回りたいように回り、私の踊りたいように踊らせてくれる。
今まで付き合って来た男性の中でここまでリードが上手な男はいなかった。強引に私の手を引っ張る者や、私を支えきれない者、中には口だけの踊れない男までいた。
雨が染み込み、びしょ濡れになった男性の体にはカッターシャツが張り付いていた。
鍛え上げられた大胸筋がシャツの下から浮かび上がる。
「あら、酷い恰好ね。風邪をひく前に温まらないと」
「大丈夫ですよ、お嬢さん。雨に濡れるくらい慣れている」
「そんなことは慣れていいことではありませんよ。うちに来てください。温かい紅茶でもお出ししましょう」
私は上目使いに男性を誘う。
雨はすっかり上がり、空には虹がかかっていた。