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とある天才音楽家たちの夜

作者: miette

気高くとまった静寂の夜の王都に建つこちらも済ましたような邸宅で、二人の若い歌手はまだはしゃぎ続けていた。

「だから私、そう言ってやったのよ。あのお高くとまった脚本家はしなかったけど、今となったらいい気味だわ!」

「もうほんとにジェリーったら、とんでもないことばかりしてるのね!」

ガブリエーレ=ファスビンダーは、脇で自身の破天荒な伝説を生き生きと語るJJの語り草に涙ぐみながらおかしそうな笑い声をあげた。智慧をたたえた知的な眼差しに整った顔立ち、上等な色の豊かな髪はまさに地に降りた妖精の女王とばかりのもので、その女ーーーJJの非凡な魂を立ち姿だけでも感じさせる見た目だったが、舞台や新聞を降りたJJは無邪気で天衣無縫な表情ばかり見せる若い女だった。ガブリエーレはこの類い稀な歌姫が見せる屈託のない表情に初めの頃は大変戸惑い、答えに迷ったものだが、今となっては抜群のセンスと音楽技術、親しげな人柄を併せ持つこのトワイライトは気の合う愉快で仲良しな友人であり、互いに得難い音楽仲間でもあった。

「それにしても...パパが遅いわ」

「おじ様なら心配しなくても大丈夫、きっとまた夜の見世物小屋か劇場に遊びに行ってしまったのよ。実はこの間ばったり会ったの」

JJは気楽な口調で言った。彼女は水槽の中で肘をつき、艶やかに、或いは子供っぽくヒレをパタパタと動かしていた。小さな波が海のように幾重に揺れ続けていた。

「エリーは夜が嫌いなの?」

「いいえ、夜は嫌いじゃないけどおっかなくて一人では外出しないわ。私のパパも一度やられたのよ、帰ってこないと思ったら翌朝に帰ってきたけどまるで死人みたいになってた。そこから向こう三日は...大変な目にあったわ」

「あらあら。どんなロストかしら」

「女の人だったらしいわ。知り合いみたいに話しかけてきたけどどうしても思い出せなかったって」

「それは嫌ね」

「それじゃ、あなたの嫌いなものは何?」

「私?」

JJは声を潜めて言った。

「私はね、苦手な音楽家がいるの。短気でね、歌い方が自分の解釈に合わないとすぐ怒り出すのよ。解釈なんて人それぞれだから納得できなくて」

「あなたの言う通りだわ!」

ガブリエーレは目を見開いて頷いた。

「それで、あなたは?嫌いなものは何?」

「...雷ね」

「雷?」

「突然来るからよ!稲妻が光るといつ落ちるか冷や冷やするけど、どれだけ準備しても落ちた瞬間のあの轟音には心臓が止まりそうになるわ」

「ああ、わかるわ」

「あとは夜中のお客さんも嫌」

「どうして?」

「突然来るからよ」

JJは声を上げて笑った。

その時、彼女の目にいたずらな無邪気な光が宿った。遊び好きな天才の能力がまたも開花しようとしていた。

「ねえ、エリー。私達でちょっと曲を書いてみない?」

「曲?」

「あなたのお父様は音大を出てるじゃない?あなたにもその血が流れてるわよ。ねえ、やってみましょうよ。きっと面白いわ」

音楽好きの遊びを楽しめる者はあまりないはずだが、このガブリエーレもまたその才には恵まれた少女だった。彼女もまた愉快そうに目を輝かせた。

「ええ、やるわ!」

意気揚々と羽ペンと羊皮紙を広げ、わくわくと想像と才能を繰り広げる二人の歌手を、部屋の明かりが夜の闇から守っていた。その下で二人はどこまでも楽しい音楽の翼を広げていけるのだ。

「嫌いなもの、ね...。雷、夜中の客、怖い音楽家」

「魚の苦いところも苦手だわ」

「それなら肉の脂身も」

「わかるわ。あと泥沼」

「カラスなんてどうかしら」

「たくさん出て来るわね」

ジェリーは愉快そうに笑いながら羊皮紙を覗き込み、さらに目を煌めかせた。

「じゃあ、泥まみれの音楽家が雷の夜に肉の脂身と魚の苦いところを食べてる人のところに行く歌でどうかというしら」

陽気な提案に二人は仰け反って大笑いした。大嫌いなものがこのような形で面白いものに早変わりしてしまうのが実に気持ち良かった。とりとめもない嫌な感情がくだらないものになってしまったのが楽しい。

「さあ、曲をつけましょ!」

JJは興奮して言った。ガブリエーレも同じく目を輝かせていた。リズムに符号、音程、それが関わるだけで、この二人を取り巻く全てのものは楽しみに変わるのだ。二人は音楽に触れていたくて仕方のないような者だった。音とリズムが何より楽しく、曲は何より探求すべき相手だった。その道を共にできる友人だからこそ、お互いに得がたい友なのである。

「始まりはこうでどうかしら...ア、ア、アーーーー...」

JJは美しくあでやかな声を上げた。

「泥まみれならもう少し重量感があっても良いわね」

「確かに。ならこうかしら...」

「今の方がはまってるわ」

ガブリエーレはすらすらと羊皮紙を五線紙に仕立てた。

「ここのロンドは長くしたいわね」

「泥まみれの音楽家が登場してから雷の中歩き出すところまでね」

「なら雨の音が欲しいわ」

「ああ...そうだ」

「何?」

「馬が走ってるのは?」

「いいわね!」

いきなり今度はガブリエーレの方が小刻みに揺れる音程を歌い出した。一節歌い終えるごとに五線紙に楽しい音符の浮き橋が伸びていく。新しい曲ができていく。

「じゃあ次ね。人を訪ねる」

「お屋敷らしい感じがいいわね」

「なら転調?」

「悪くないけど、安易だわ」

「ひねりましょうか」

「あえてマーチにしちゃう?」

「いただき」

ガブリエーレはペンを走らせた。

まるで子供が遊んでいるといつの間にか夕方になってしまうように、曲と向き合っていると時間が飛ぶように過ぎてゆく。二人には音楽が絡みついただけで嫌なものも楽しい時間に変わってしまうのだ。生まれついて音楽の魔法にかけられたような子供たち故に音楽が彼らの居場所であり、また、それ故に彼らは音楽の魔法を扱うことができるごく少ない人間なのだ。そして二人が揃うとどこまでも無邪気に音楽と対峙し合うことができるのだった。

「うわあ、すごい!」

「そうね、ちょっと歌ってみる?」

JJは美しい声で旋律を奏で出した。

「いいわね。で、そこで恐怖のコーラスが入る!」

「いい感じ!」

ガブリエーレが超音波のような極高音を歌い上げると、JJが喝采した。

「ここはこういう感じでしょ」

「で、そこで馬が飛んでくる!」

「おぉー!」

時が移るのも忘れて盛り上がっている。五線譜の上を際限なくペンが走っていく。ただの紙の上に煌めいた溌剌とした音楽の魔法が次々とかかっていく。

この二人の歌手が揃ってしまうと音楽の至高の楽しさに夢中になるせいで、明け方になって帰ってきたエルンストのステッキが書き物机の脇を叩く音でやっと熱から覚めたのも珍しい話ではなかった。

この夜、いや、今ではこの朝も変わらず完徹をまったく苦ではない様子でしたらしい歌手二人に、エルンストは他人事のように呆れかえった視線を投げていた。

「呆れた奴らだな。今何時かわかるか?」

「えぇと、5時?」

「9時だ」

「嘘!?」

呆気にとられたと言わんばかりの反応に、こっちの台詞だよとエルンストはさらに呆れた。

「さすがに寝てるだろうと思ったのに夜中起きていたとはな。帰ってきたらまだ起きてるんだから驚かされる」

まったく何してたんだよ、とエルンストが机を覗き込むと、ガブリエーレは楽しげに羊皮紙を見せた。

「見て、曲を作ってたの」

その脇で得意げなJJを見下ろし、お手上げとでも言うような皮肉な表情で即席の楽譜を受け取る。

まったくお手上げだ。一晩中作曲にのめり込み、一晩で曲を作ってしまうなど只者に出来ることではない。音楽の魔法に憑かれ、特別な力を持つ限られた人間ーーー有り体に言えば天才という奴が成せる所業だ。その夜明けにすら気づかない心理にも、気一つでしっかりと曲を作り上げてしまう手腕にも最早共感は覚えることができず、ただ驚嘆と唖然とする気持ちしか感じなかった。多分、自分や多くの人間には理解できない、この二人にしかわからないものがその特別な力を見せているのだろう。

「曲か。...楽譜はもらっていくぞ、いずれ何らかの曲に完成させて返す」

「ほんと!?」

興奮する二人にエルンストはつくづく非凡なるものを感じ、肩を竦めた。彼らが書いた曲など金を出してでも手に入れたい者が大勢いるだろうに。そのことをまったく意識もせず、ひょっとしたら気づきもしていないのが恐ろしい。

「あぁ。さあ、いい加減に大人しく休むんだな。ガブリエーレ、お前は今日の出番は夕方だから適当に仮眠でも取っておけよ」

「ええ」

「ジェリー......お前は帰った方が良いだろ?」

「そうね、帰るわ」

JJはまだ名残惜しいという表情を浮かべながら「押してちょうだい」と水槽の中でヒレをパタパタと動かした。

「楽しかったわ、エリー。また今度ね」

「うん、またね、ジェリー」

天真爛漫な笑顔で手を振るガブリエーレに見送られながら、扉から出たJJは夢でも見ているように言った。

「私、やっぱり歌が好きだわ。あの子とまた歌いたいなぁ」

その道を楽しむゆえにどこまでも進化を遂げてしまう天才ほど末恐ろしい存在はない。

明日は、10年後はどうなっていることやら。

エルンストは呆れと高揚を覚えながら、口許を軽い微笑の形に歪ませてJJの水槽を押していた。

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