7、決意の夜
オレの提案に家康はすぐさま頷いた。まあ、うん、首を縦に振ったし間違いないだろう。単に勢いでそんな動きをしただけかもしれないが。
話す場所として選んだのは、奥の縁側だ。ここならば、他の誰かに聞こえることもないだろうし、家康が側にいればオレがいきなり切り捨てられることはないだろう、多分。
ゆっくり座っていると、俺の混乱も家康の呼吸も落ち着いてくる。時代や世界が違っても人間は人間だ、一息つけば頭も回るようになる。
人間が何かやらかすときはテンパってる時と決まっている。どんなに優秀な人間でも焦ってる時は何かをやらかすものだ。特に、この家康は常にテンパってるようなもんだ。相当、やらかしも多いことだろう。大方泣いてたのもそれだ。
「………私の初陣が決まったのです」
「はぁ……それはえーと、おめでとうございます?」
「ありがとうございまする……」
驚いたことに泣いていた原因は数多くあるであろう失敗ではなかったらしい。
初陣というと、つまりは彼女は近いうちに初めての戦に出るという事だ。基本的に武士にとっては初陣とは誇るべきものである。現代で言うとそれこそ、あれだ、処女や童貞のようなものだ。だから、大抵の武士はできるだけ早く初陣を経験したがるもんで、初陣の時期を巡って親子喧嘩をするなんてこともあったらしい。
まあ、大抵の場合初陣は初体験ということもあって、事前に勝ち戦と決まってるものや弱い相手との戦が選ばれることが多い。最初にいい経験をしておけば、あとも上手くいくというものだ。
だから、彼女にとっても初陣は喜ぶべきことのはずだ。もっとも、家康の表情からして喜んでいないのは明白だった。
「えっと、その初陣になにかあったのでしょうか?」
「い、いえ、御所からは織田攻めの先鋒を仰せつかり、真に名誉なことと……」
言葉とは裏腹に家康の声のトーンはどんどん落ち込んでいく。確か家康の初陣は三河の寺部城での戦いだったはずだが……ああ、なるほど、そういうことか。
「……戦が不安ですか?」
「…………はい。前々からあった話なのですが、いざとなると足がすくんで……」
オレの問いかけに家康はあっさりと頷く。武士としては誰にも臆病なところは見せまいとすると思ったが、彼女は例外らしい。
だが、オレにとっては変に誤魔化されたり、強がられるよりはいい。我ながらどうかと思うのだが、おびえてるのが自分だけでないと知って少し安心できたくらいだ。
それに家康の直感は間違ってない。寺部城の戦いは、初陣としては例外的に激戦とまではいかないものの、まともな戦だったらしい。成り行きによっては家康がここで死ぬことも十分にありえた。だから、若さに任せて無謀に勇ましく振舞うよりは神経質なまでに警戒しているほうが安全だろう。
まあ、もっとも、史実の家康はこの戦いで四つの城を落として、家臣たちから武勇の誉れ高かった祖父松平清康の再来と褒め称えられたらしいが……。
「……それゆえ、貴方様をお探ししようと考え至ったのです。”巫術”の達人にして我が恩師、雪斎禅師がご臨終の間際に仰ったとおりに」
人質時代の家康に教育を施した雪斎禅師、つまり、大原雪斎は僧侶にして今川家の軍師でもあった人物だ。つまり、僧という事はこの世界においては例の”巫術”とやらを扱えるという事でもある。
なるほど、チート坊主が魔法まで使えるなんて考えるのもおそろしい。他の大名にとっては死んでほっと一息といったところだろうか。
「ちなみに、雪斎禅師はどのように仰せられたのでしょうか?」
「”久能山に光の柱立ち上らばそは天よりの”御使い”の兆しなり”、そしてこうも仰いました、”御使いを迎えて戦なき浄土を求めよ”と」
涙を堪えるように瞼を閉じて、家康はそう遺言をそらんじてみせる。なるほど、茶屋では今一要領えなかったが、こうして聞くと彼女の好感度が異様に高かったわけにも納得がいく。というか、ほとんど釣り橋効果のようなものだ。怯えているのか、恋しているのかはかなり際どいところにある。
彼女はオレのことを困窮した自分達を救うため恩師が使わした救世主だとおもっているのだ。そんな相手を邪険に扱えるはずがない。オレの機嫌を損ねることはすなわち彼女にとっては家の滅亡にも繋がることだ。
オレなら胡散臭いと思ってとり合わないが、この時代の人間にとっては信じるにたりるものもあったのかもしれない。
「……オレはその御使いとやらではないですよ」
「はい……それは承知しております……」
オレの再三の否定を家康は受け入れる。彼女は馬鹿ではない、オレが自分の望んだものではないことはもう分かっているはずだ。オレが本当に神仏の使いなら矢があたるはずもないし、傷も自分で治せるはずだろうから。
今確信した。彼女の涙は演技ではないが、やはりこの家康は魔性の女だ。
「なら、どうしてこうもオレに良くしてくれるのでしょうか? お家も困窮しておられるはず、それに家臣の方々には俺のことは”御使い”だと言ったままのようですし……」
「それは……」
彼女は俺がただの人間だと分かっている。ただの人間だと分かった上で、こうして飯まで出して世話をしてくれた。
ただ奇妙な格好をしたどこの馬の骨の者とも思えぬ相手にそこまでする理由などない。矢を射たことの貸し借りならば、傷を治した時点で済んでいる。
オレの知る限りの戦国時代は、冷酷さをもたなければ生きてはいけない世界だ。時には情を見せることはあってもそれは計算の一部に過ぎない、オレはその分かりやすさを気に入っていたのだ。
だから、ここまでするからには家康にはなにか意図があるはずだ。
「……貴方様がお困りだろうと思ったからです」
「……は?」
あまりにも単純な答えに思わず言葉を失う。そんな現代人のお人よしみたいな感覚で俺を助けたとでも言うのだろうか。
「貴方様はまず私にここはどこかとお尋ねになられました。そのような事を聞かれるからには、ここに参られたのは不慮のことではないかと考えたのです。ならば、行くあてどころか、今夜の宿さえございませぬでしょう。だから、私のできるかぎりでお助けしようかと……」
オレが責めてると思ったのか、家康は言い訳のようにそう言い連ねる。最後の方は消え入るようでさえあった。
大した洞察力だが、彼女の言葉は嘘には思えない。彼女は本気で俺が困っていると判断したから、こうして家にまで泊めてくれたのだ。自分は初陣の恐怖で今にも泣き出してしまいそうなくせに、そんな理由でオレに手を差し伸べてきたのだ。
正直言って、頭がおかしくなりそうだった。こんな理由でここまで親切にするなんて、親か親友くらいのもんだ。オレなら絶対にこんなことはしない。
「本当に、それだけの理由で……?」
「は、はい、なにかお気に障ったでしょうか……? いつも忠次にも穏やか過ぎると叱られていますし……」
「い、いや、そんなことはない……」
もうどうすればいいのやら。オレは彼女を利用しようと思っていた、自分がこの世界で生きていくために彼女を待つであろう過酷な運命を利用しようとしていた。そんな相手に、こんな理由で助けられて俺に一体どうしろというんだ。
一体なにをすれば、この気持ちの蟠りが消える。純粋な善意になにを返せば、自分の浅ましさを忘れられる。
いや、分かっている。ご恩と奉公だ、恩を受けたからには同じだけの奉公で返すしかない。
「……一つ、お願いがあります」
「な、なんでしょうか? 私にできることならなんでも――」
「竹千代様のご初陣、私も戦陣に加えていただけませんでしょうか?」
そうして、オレは自分で他の選択肢を全て捨ててしまった。流されるだけでは終わらないと決めた矢先にこれでは自分を呪いたくもなるというものだ。
戦陣に加わるという事はつまり家康に仕えるという事、つまり、オレにはもう家康を助ける以外に選択肢がなくなったのだ。
それもこれも全部、この魔性の女のせいだ。
悪意があるでも、利用するでもない。ただ善意で接してくる相手をどうすればいいか、オレにはまったくさっぱりわからなかった。