6、理性ギリギリ
出された食事は屋敷の貧相さに相応のものだった。一応、一汁三菜ではあるが、麦飯はお椀の半分もないし、煮干はもう乾ききっているし、漬物は薄すぎて向こう側が透けて見えそうなくらいだった。
正直、食べた気はしなかった。味付けは薄いし、忠次は俺のほうを明らかに見てるし、家康の方は俺の一挙手一動作に過剰反応してるしで、もう頭が痛くなりそうだ。
そんな針のむしろそのものな食事が終わったのは、午後七時のこと。それから家康には風呂を勧められたが、さすがに無防備になるのは憚れたので、断った。そのときも涙目になられたのは俺が悪いわけじゃない。
互いに疲れてるから就寝という話になったのは、午後八時だ。これはこっそり携帯電話で確認したから間違いない。人間が夜も活動できるようになったのは電球が発明されてから、というのは正しかったらしい。
だが、これからはもう時間を見るために携帯を見るなんていう贅沢はやめておいたほうがいいだろう。電源の消費はできるだけ抑えるのが定石だ。
俺の与えられた部屋は屋敷の奥、といっても狭いから大して奥でもない一室だった。おそらくは客間なのだろうが、しばらく使われてないのは破れた障子からも明らかだった。
「どうしたもんかね……」
畳の上に座って、頭を捻る。ようやく一息ついたところで、これからについて考えようと思ったが、どうにも考えるべき事が多すぎる。流れに身を任せるだけではいけないと分かっていても、現状取りうる選択肢は多くないし、正直お手上げだ。
とりあえず、なにか役に立つものがないかと思って、ポケットの中身を出してみるが、そこにあったのはボールペンと財布とスマホだけ。紙幣も硬貨もこの時代では価値を持たないし、意味があるのはボールペンくらいか。まったく、もっとこう金塊とか宝石とか普遍的価値のあるものを持っておけばよかった。スマホやペン、それに来ている学生服も売ろうと思えば珍品として売れないこともないだろうが……それは最後の手段にしておこう、元の世界とのつながりは一応持っておきたい。
この世界が戦国時代に良く似た異世界なのだとしても、金さえあれば大抵のことは何とかなる。ポケットに金の延べ棒でもあれば、家康の世話になる以外の選択肢も持てたのだが……そう上手い話はない。
ここが戦国時代ならば、家康に上手く取り入りすさえすれば、それで話は済んでいた。艱難辛苦あるとはいえ、最終的な勝利者はやはり家康だ。彼女の機嫌を損ねず、かつ、戦場で討ち死にさえしなければ、少なくとも犬死にすることはない。
問題はやはりここが俺の知る戦国時代とはイコールではないことに終始する。本当に家康が天下を取るのか、それとも、別の誰かが勝つのか。それが分からないせいで、どうにも判断が下せない。
「……すこし外に出てみるか」
マイナス思考に陥りそうになったところで、体を動かすことに決める。何かを判断するには、とにかく今は情報不足だ。
襖を開けて縁側に出ると、夜風が気持ちいい。そういえば、今は何月なのだろうか。冬じゃないことは確かだが、それ以上のことは分からない。
できるだけ音を立てないように庭に出てみる。やはり手狭だが、きちんと手入れが行き届いている様子からはここを管理しているであろう石川数正の生真面目さが見て取れた。
月明かりに照らされていると、緊張していた脳みそが少しずつ柔らかくなってくる。やはり、考えてもしかたがないことは考えないのが一番なのだ。
縁側に座り、深く息を吐いてみる。よくよく、希望がないわけでもない。この世界と俺の知る戦国時代には大きなズレがあるが、ここで起きる出来事自体はそこまでの違いはないように思える。それに、登場人物は同じだ。オレの知識が邪魔になることもあるだろうが、役に立つことのほうが大半だと思われる。
”なせばなる、なさねばならぬ、なにごとも”、”甲斐の虎”武田信玄の言葉だがそのとおりだと思う。なに、酒井忠次の殺気もやり過ごせたのだ。これからさきもどうにかやっていける可能性は充分にある。
こんな場所に突然来てしまった不幸を嘆くよりも、この場所に来た事をチャンスと考えるほうがはるかに生産的だ。
「――っ、――」
オレが一人で半分やけくそなプラス思考へと切り替えていると、変な音が聞こえてくる。押し殺した誰かの声、一瞬幽霊かとも思ったが、流石に違うだろうと否定する。いや、幽霊の可能性だってあるわけだが、信じたくないというのが、オレの本音だ。
思考的にも復活したおかげか、好奇心も復活してきた。怖いもの見たさもあって、音のほうへと足音を殺して近付いてみる。
頭の中ではこれがかなりまずい行為だという事は理解している。家康に夜這いをしようとしてるとでも思われたら、その場で間違いなく切り捨てられるだろう。
しかし、好奇心が抑えられないのも事実。せっかく戦国時代のような場所に来ているのだ、命懸けの肝試しも悪くない。
「あれは――」
廊下を曲がって、屋敷の中側のほうに近付くと、声の主が視界に入る。奇妙な声を発していたのは、厠、つまりトイレの前にうずくまった女幽霊だった。
一瞬悲鳴を上げそうになるが、どうにか我慢する。床に着いた黒い長髪といいそうとしかみえないが、あれは多分家康だ。白い寝巻きでも激しく自己主張してる胸部からして間違いない。
「あー……いえや……竹千代殿?」
どう呼ぶか悩んで、竹千代と呼ぶことにする。秀吉ほどではないが、家康も結構名前を変えているからどう呼んでいいか、一瞬混乱しそうになった。
「え? あ、さ、佐渡殿!?」
オレの声を聞くと、家康が飛び上がる。本当に反応が分かりやすい。あざとさでいえばもうすでに日本一かもしれない。
「……こんなところで、どうかされたんですか?」
「い、いえ、そのお見苦しいところを……」
オレが分かっていて尋ねると、家康は涙を拭いながら顔を伏せる。いまさら泣いているのを見られて恥かしがるなんて奇妙な話だが、家康にとってはなにか違ったらしい。
家康がここで一人で泣いていたのは考えなくても分かる。問題は理由が何かということだ。
「”御使い”殿には情けないところばかりをお見せしてしまって……」
「佐渡、で結構です。俺自身には”御使い”なんていう自覚はないので」
できるだけ口調が厳しくならないように気をつけて、そう付け加える。家康にオレがなんでもできる神の使いだと思い込ませておくのは楽だが、どうにもいい手には思えない。嘘をつくならばれない嘘だ、いずればれる嘘をついてもその場しのぎ以上の意味はない。
長期的な関係を作ろうと思うなら、嘘はつくべからず、だ。大言壮語を吐いて中身がないと思われるよりは、軽い人間と思われてから意外とやるなとおもわれるほうが印象がいい。
「そ、そうですね、申し訳ありません……」
「……いえ、お気になさらず」
申し訳なさそうに目を伏せる家康は、本来は男だったとは思えないほどに色っぽい。襟元からは上気した白い肌が覗いているし、乱れた黒髪が逆に色香をかもし出している。
正直言ってやばい、家康ではなく俺のほうがやばい。命の危機があると分かってなければ理性を放り出していたところだ。
「……お休みのところだったのですよね……も、もういかれてください……私は大事ありませぬゆえ……」
家康は涙を引っ込めると、どうにか笑顔を作り、もう行くように伝えてくる。無理しているのは明らかで、オレが廊下を渡るとまた泣き出すのはわかりきっていた。
どうしてこうも好感度が高いのかは分からないが、オレが去るなんて言い出したら一体どうなってしまうのだろうか。
「……よろしければ、すこし話をしませんか?」
だから、こう自分から提案してしまったのはしかたのないことなのだ。
彼女はどうしようもなく人の庇護欲を掻き立てる。ある意味ではカリスマといってもいいだろう。
狸でも、泣き落としでもなく、魔性の家康。この世界での家康は、男を破滅させるタイプの魔性の女らしい。