5、貧乏は辛いよ
この時代、いや、世界においてオレには行くあてがない。身元も分からない相手を養ってくれるような都合のいい相手がいるわけでもないし、なにか仕事を見つけようにも最低でも二、三日には野宿と断食を覚悟しなきゃならない。
18歳までぬるま湯のような現代日本で生きてきたオレには酷な話だ。正直言って、この時代の過酷な農民の暮らしに自分が適応できるとは到底思えないし。
そんなオレにとって、家康の誘いは天からの救いに等しい。これからどうするにしても彼女の元で情報を集め、この世界についての知識を付ければ、光明が見えてくるかもしれない。
そう判断して、彼女についてきたが、その判断を早速オレは後悔していた。案内されて辿り着いた屋敷が、屋敷とは名ばかりの小屋だったからだ。貧相という言葉が具現化したような造りに、狭いというよりはもはや小さいというべき家屋。とてもじゃないが岡崎城主の屋敷とは思えない。
というか、廃屋だ。そう言われたほうが納得できるまである。
「さあ、どうぞ! むさ苦しいところですが、どうかごゆるりと」
「ど、どうも」
目元の赤い家康に招かれて、門を潜る。もし断れば泣き出しそうだし、後ろに控えてる忠次には切り捨てられそうだし、実質選択肢はなかった。
しかし、考えてみれば、この屋敷も当然のものではある。今の家康は三河の松平氏から今川に預けられている人質だ。
戦国時代において、家臣や従属した家に、主家が裏切らないという保証のために人質を差し出させるというのはよくある話だ。最悪処刑されることは言うまでもないが、その扱いは家によって違うが、まあ、今川家は比較的優しい部類に入る。
家康の扱いとしては、のちに今川家の親戚筋から嫁を貰ってることからしてもそれなりだったのだろうが、実家である松平家の困窮はかなりのものだったらしい。つまり、この屋敷の惨状もその困窮の表れだとしたら納得できる。
ようは、屋敷を修繕したりする金もないほどに金欠なのだ。
この松平家の台所事情を忘れていたのは、オレのミスだ。これは反省すべきことだろう。知識があっても活用できなければ宝の持ち腐れだ。さりとて、今更別の選択肢があるわけでもない。野宿よりはマシだと自分にいい聞かせるのが、今できる最善手だ。
「――数正! 夕餉の準備はできておるか!!」
「喧しい!! そんなでかい声で呼ばんでも聞こえておるわ!!」
そんなことを考えいると、忠次が大声で誰かを呼ぶ。それに返ってきたのは負けず劣らずの大音声。
数正、知ってる名前だ。人質時代の家康の傍にいた家臣はそう多くはないし、数正という名前の武将は一人しかいないはずだ。
「――殿、おかえりなさいませ。そして、なんと……お客人もおられましたか」
「ええ、この方は私の客人です。粗相のないように」
「は、膳はお言いつけどおり、四人分用意しております」
「さすがは数正です」
屋敷の奥から大きな足音を鳴らしながらやってきたのは、細身の男。紺色の着物が男の鋭利な印象を強めていた。年のころは、二十台後半くらいだろうか。印象のせいで老けて見えるのは否めないが。
この見た目といい、名前といい、やはりこの男は、石川数正で間違いないだろう。
石川数正は、人質時代から家康に仕えて、家康の懐刀といわれた男だ。役目としては、忠誠心はあってもほとんどが脳味噌まで筋肉な家康家臣団の参謀役、というのが的確だろう。独立後に、今川家から人質を取り戻す際の交渉役も彼が担っている。もし、最後まで徳川家に仕えていれば、後の江戸幕府においても高い地位についていた可能性は高い。
もっとも、歴史にIFはない。豊臣秀吉の下への謎の出奔、つまり、主君の鞍替えで彼が江戸幕府の重鎮となる未来は実現することはなくなった。
しかし、石川数正が台所ががりとは……これだけでどれだけ困窮してるか分かる。小間使いや料理番を雇う金もないのだろう。
「では、殿は先にお着替えを。鎧のままでは暑苦しゅうございましょう」
「分かっています。では、佐渡殿、しばし失礼をば……どうか、どこにも行かれないでくださいましね……」
「も、もちろんです」
家康は去り際に、オレの右手を両手で握って、何度目かも分からない懇願をしてくる。涙目を浮かべた美少女にこういわれて断れる男はそうそういないだろう。あざといといえば、かなり、あざといが、演技とは思えない。
演技で目元を腫らして、雨に濡れた子犬のようにプルプル震えられるなら、それこそ天下人の器だ。信長も秀吉も泣き落としで何とかできるだろう。
狸の家康ならぬ、泣き落としの家康。化かされそうという意味では似たようなものなのかもしれない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
そのあと通されたのは、生活空間となる居間と思しき場所だ。家康は着替えに行ったままだし、食事の準備をする数正は台所に消えていった。
残されたのは、オレとむくつけき酒井忠次。正直言って、すさまじく気まずい。十六世紀の武士になんと話しかけていいかも分からないし、向こうのほうも一言も口を利いてくれない。
というか、怖い、かなり怖い。鎧も脱がず、腰の刀に手を掛けたその姿は野生の熊よりも迫力がある。下手なことを言えば、この場で切り捨てられてしまいそうだ。
「……”御使い”殿にお尋ね申す」
「な、なんでしょうか?」
数分間の沈黙のあと、これまたドスの聞いた声が響く。どうにか顔や声には出さないようにしているが、ビビッているのがばれてないという自信はない。
機嫌を損ねれば、何が飛んでくるものやら……問答無用で刀を抜かれたら、オレはここで死ぬことになる。質問への答えは慎重に選ぶべきだろう。
「御身が真に殿の申される神仏の”御使い”かどうかは某の与り知ることではござらん。某の知りたきことはただ一つ」
そこで言葉を切ると、忠次はオレの正面に向き直る。やはり、威圧感は凄まじい。さすがあの化け物だらけの徳川四天王の筆頭というべきだろう。
だが、そんな武人を前にして、オレの中の恐れはわずかな安心とやられてたまるかという反骨心に変っていた。
本当に”御使い”かどうか尋ねられていたら、正直困っていた。けれど、そうじゃないなら活路はある。ならば、それを掴み取るまでのことだ。
「御身に、我が殿と松平家への害心のありやなきや、ただそれのみにござる」
「……なるほど」
質問そのものはひどく当たり前な、忠誠心の発露そのものだった。オレがもし害心、つまり家康に危害を加えるつもりがあると答えれば、忠次は一切の迷いなくオレを切り捨てるだろう。例え、オレが本物の”御使い”とやらでも彼は容赦はしない。
それが彼等”三河武士”だ。主への忠誠心と頑固さ、声のでかさは日本一。オレの知るままの在り方で目の前にいる。
おかげで、覚悟は決まった。今目の前にいるのは世界は違っても、オレの憧れた忠義に厚い武士だ。
ならオレも憧れの相手に恥かしくないようにやってやる。命懸けだが恐怖はない、むしろ、こんな場面に遭遇できたという事が嬉しくて仕方がないくらいだ。
「露ほどの害心もありませぬ、と申しても信じろというほうが無理がありましょう」
「ほう、では――」
「ゆえに、貴殿が私に害心ありと判ずればいつでも切り捨てられるがよろしかろう」
「……自らを質とするゆえ、その言葉を信じよ、と?」
「差し出せるものがほかにありませぬゆえ。それでも納得がいかなければ、今ここで切り捨てられるがいい」
堂々と、かつ目を逸らさずにそう言い切る。オレの知る彼らの気性ならば下手に言い訳したり、説き伏せようとするのは逆効果だ。
こちらの気概を示して、命懸けの姿勢を見せる。危険な賭けだが、命を賭けるだけの命を賭けるだけの賞賛はある。
いや、やっぱり少し怖いが、これでいい。ここは異世界でも戦国時代だ、憧れた場所で死ねるなら本望でもある。
「……あいわかり申した。ご無礼の段は、どうかご容赦を」
「いえ、忠次殿のご懸念は忠義の発露、これを責めては私のほうが愚かと笑われましょう」
息の詰まるようなにらみ合いのあと、納得したらしく忠次は引き下がってくれる。とりあえず、正直な感想に褒め言葉をつけておいたが、少しは好感度が上がっただろうか。
とにかくここは乗りきった。さっそく死に掛けるとは想定外だったが、自信はついた気がする。オレの知識はこの世界でも役に立つらしい。
まあ、オレを疑うのは当然の反応だ。神の使いを名乗る人間なんてもう胡散臭すぎて、疑わない人間のほうが少ないだろう。いや、オレは名乗ってないけど。
「――佐渡殿!」
一息ついたと思うと、今度は家康が襖を開けて飛び込んでくる。瞳にたまった涙からして、着替えてる間に不安になったのだろう。
……まったく、いい加減休ませてくれないものか。