45、正しいこと
人間を動かすときに大切なことは、相手に自分は正しい事をしていると思わせることだとオレは考えている。
普通の価値観を持つ人間ならば、自分が間違っていると思うよりも正しいと思いたいものだし、正しいと考えている事を変更するのは精神的抵抗感が強いからだ。
それに自分が正しいと思うのは楽だ。感じるはずの罪悪感も相手の苦痛も、正しい行為であるという保証さえあれば簡単に正当化できる。虐殺も、略奪も、戦争もこれが間違っていると思ってやるやつはいない。
別にオレはそういった大義名分を否定するつもりはない。軍師としてのオレにとってそれらのお題目は利用するものでしかないからだ。
正しいとか正しくないとか、そんなことを判断するのはのちの歴史家がやればいい。オレはただ義務を果たせばいい。
今回に関してもそれは同じだ。城を空け軍勢を招き入れる、という愚行をこの山田景隆に正しいと思わせるのがオレがすべきことだ。
「――この岡崎の城は我ら松平勢にお任せいただきませぬか?」
「……どういうことじゃ?」
焦りを募らせる山田景隆の前でオレは我ながら無茶な策を口にする。警戒心の強い武将が相手ならこの場でオレを切り捨てていただろう。
城を任せろ、といえば聞こえはいいが、実質は城をよこせといっているのと違いはない。
仮初の城主である城代とはいえ城を預かる以上はその城と領地に対しての責任がある。もちろん主君の許可なく城を明け渡すことはできないし、通常ならば謀反ととられても致し方ないことだ。
だが、この状況ならばそれも覆せる。保身ではなく忠義心で動く彼のような人物ならば勝算はある。
「松平勢は我らに城を明け渡せと申すのか? それがそなたの言う我らの懸念を一挙に解決する策だと申すのか!」
「そうです。この岡崎の城には我ら松平勢が篭城いたします。その間に山田様には駿河へと立ち戻り、若き氏真様をお助け願いたいのです」
当然至極な景隆の怒りに理路整然と答える。こうして詰め寄られたときに大事なのは、動揺しないことは前提として逆切れしないことだ。
決してこちらは感情的にならずにあくまで冷静に言葉を重ねること、正しい事を言っているのだという自信を全身に漲らせておけば相手の疑いを軽減することができる。
「しかし、織田がまことにこの城を黙殺する腹積もりならばそれは無駄になろう。今川家の御ためと申すならそなたたちも我らと共に駿河に参られるべきではないか?」
「それはこの報せが織田の策略ではなかった場合のことです。もし仮にこれが織田の策謀ならばもぬけの殻になったこの城は織田の手に落ちることになるでしょう」
もちろん、実際には織田が遠江への侵攻をもくろんでいるというような事実は一切ない。一切ないが、それでも景隆はその可能性を否定できない。
冷静さを保っていれば物見を遣わして状況を確認してから判断を下すこともできたのだろうが、今の彼には無理だ。義元が死に、誰が裏切り者で誰が味方かもわからないというこの異常な事態が彼から冷静な判断力を奪っているのだ。
「我等がこの城に篭り、山田様の軍勢が駿河へとお向かいになれば、この城だけではなく氏真さまをもお守りすることができます」
「ふむ……」
城にはオレたちが残り、今川勢は駿河の守りを固める。文面だけで判断すればそれなりの策のようにも思える。
さっきオレが言ったとおり、この岡崎城は松平家にとっては勝手しったる庭だ。今川の助けがなくても城を守り通すだけならばそれほど難しくはない。それに三河の国人衆は今川勢には牙をむくかもしれないが、同胞である松平家にはそうそう歯向かっては来ないだろう。
もっともこれは、オレたち松平勢が裏切っていないという前提に立った場合の話しだ。松平勢を疑い、城を乗っ取ろうとしているのではないかと少しでも考えれば、決してオレ達に城を譲ろうとはしないだろう。
だから、この山田景隆に松平は信頼できると思い込ませる必要がある。
「それに今は誰が織田に寝返っているものか分かりません。もしかすると、駿河にて氏真さまを狙うものがおらぬとも限りませんでしょう……」
「う、うむ、それは……ないとは言い切れぬな……」
寝返りの可能性はいくらでもある。誰かが氏真を守らなければならないという話はそれなり以上の説得力があったはずだ。
忠誠心なんてものは結局は最後の瞬間にしか証明できないものだ。どれだけ言葉で言い繕っても裏切るやつは裏切るし、普段は不愛想でも最後まで主君に殉じる忠臣はいくらでもいる。実際こんな事を言っているオレも裏切っているわけだしな。
この時代は裏切られるほうが悪いというのが基本的な価値観だが、だからこそ本当の忠誠心が尊ばれる時代でもある。その点でいえば、この山田景隆という武将も決して悪い武将ではない。
「今はできるだけ早く動くことこそが肝要です。すこしでも遅れればそれだけ御味方の不利になりましょう」
「それはわかっておる。しかし、もし織田がこの城に攻め寄せるならそなたらだけでは負け戦は必定ぞ」
「もとよりそれは覚悟の上です。それに我等がこの城に篭ることで遠江と駿河の守りを固める暇を稼げるならば無駄死にではありますまい」
さも神妙な声色を取り繕って覚悟のほどをアピールしてみせる。もちろん形だけの覚悟だが、演技そのものにはそれなりに自信があった。
理屈としては通っている。織田の接近に説得力を出すために手も打った。準備不足な部分があるのは否めないが、この状況でやれることは全てやった。
ここで死んだとしても後悔はない。あの聡明な家康ならばオレ抜きでも必ず天下は取れるはずだ。そう信じるからこそ、オレは彼女に仕えている。
そうして自分を鼓舞しながら、長い沈黙を耐える。ここまで策を打っても人間の心を完全に制御することはできない、山田景隆がどう判断するかは彼にしかわからない。
もし松平の裏切りが露呈すればオレは首を落とされる。もしオレの狙い通りに景隆が判断しなければ松平勢は総攻めを開始する、そうなった場合もオレは死ぬ。
オレが生き残るにはこの策を成功させるしかない。もとよりそれは覚悟の上、オレが心配なのはオレを失った家康がどうするか、そのことだけだ。
彼女の性格からしてまずは泣くだろう、いや、泣くのはきっと城を取り戻してからか。そのあと、三日三晩は泣き通してくれるだろうが、いつかは立ち直るはず。
立ち直ったらどうするだろうか。史実通りに織田と手を組んでくれればいいのだが……ああ、しまった、遺言状を書いておけばよかった。
……こんな後ろ向きな事を考えなきゃいけないのも山田景隆がさっさと決断をくださないせいだ。兵は拙速を尊ぶという言葉を知らないのかこいつは。
「……あい分かった。餅は餅屋とも申すしな」
「……国境まで松平のものを案内につけましょう。どうか御武運を」
息の詰まるような沈黙のあと、山田景隆はそう決断をくだす。彼は自分の意思で正しいと思える判断をしたのだ。反対する家臣もない、彼らも状況が理解できず主の考えに従うことにしたのだろう。
引き攣りそうになる頬を必死で押さえ込む。オレの策が的中したがゆえの勝利なのか、それとも偶然景隆がこの判断をくだしたのか、それは究極的には分からない。
だが、今は心の中で成功を喜ばせてもらう。これで岡崎城は無傷で手に入る。文句なく、この戦はオレ達松平家の勝ちだ。
 




