44、秘策
岡崎城に赴く前に、オレは大樹寺に残った松平家の軍勢に二つの事を頼んでおいた。
一つは、オレが夜明けまで戻らず、説得が失敗したと判断した場合は躊躇なく城に攻めかかるという事だ。
城を無血で手に入れることが出来ないのなら、次に優先されるのはどれだけ犠牲を少なくして城を落とすか、になる。そうなれば敵が警戒していないうちに一気に勝負を決めてしまうのがいい。城内のオレと忠勝は死ぬことになるが城一つに比べれば安いものだ。
もう一つはこの説得を成功させるための秘策だ。城外の彼らが上手くやってくれれば、オレの説得も楽になってくる。
「して、松平殿はこの岡崎城に援軍として入城したいとそう仰るのだな?」
「はい、我ら松平家にとってこの岡崎城は勝手しったる城であり、周辺の地侍どもにも顔が利きます。入城のご許可を戴ければ大いにお役に立てるかと存じます」
所詮は敵地である大高城に対して、この岡崎城は松平家にとってはホームグラウンドだ。篭城する際の士気の高さも違うし、地理に明るいというだけで防戦する際の有利さは段違い。仮に、この城に篭って織田勢を迎え撃つことになっても撃退するのは十分に可能だろう。
もっとも、オレがこの城を守るのは今川のためではなく松平家のためなのだが。
「そういうことならば我らに拒む謂れはない。城と三河の地を良く知る松平殿の助力があれば織田のうつけめに一泡食わせることもできようぞ」
「は! お任せください!」
「では、すぐに立ち返って松平殿にこの旨を――」
「ご注進!!」
話が決着しようとしたその時、想定通りのタイミングで急使が飛び込んでくる。
松平のみんなはオレの指示を完璧に実行してくれたようだ。これで状況は動く。今川にとっては最悪な方向に、オレたちにとっては最高の方向に。
「 もうせ!」
「曳馬城より火急の報せ! 織田の軍勢が街道筋を抜け、遠江へと侵攻しつつあるとのこと!」
「な、なに!! この岡崎を素通りしようというのか!」
オレの考えた通りの文面を伝令が読み上げる。曳馬城というのは遠江の城の一つでこの岡崎城からは南のほうにある城だ。のちに家康によって浜松城と名を改められ、出世城とも呼ばれることになるのだが……まあ、今はそれは関係ない。
山田景隆にとっての問題はこの報せそのもの。本来ならば三河の要衝である岡崎城を素通りする、というのは考えづらい。
しかし、本当にこの城を素通りして遠江に織田勢が向かっているなら今川にとっては大問題だ。
三河の東にある遠江を押さえられたらこの城は孤立する。援軍もなく篭城すれば全滅は必定だ。もちろんそのことは覚悟していただろうが、ここに篭城する意味もなくなるとなれば必ず迷いが生まれる。
その迷いが付け込む隙となるのだ。
「み、見過ごすわけにはいかん! すぐに出陣の準備じゃ!」
「しょ、承知!」
「松平殿にも同道願いたい! 我らが合力してあたれば織田の軍勢とて――」
「――お待ちあれ!!」
出陣しようとする景隆に待ったを掛ける。彼らをこのまま出陣させるのはありといえばありだが、それではこちらの裏切りが露呈するのが早まってしまう。
岡崎城を完璧な形で手に入れるのならもう一手必要となる。
「なにをもうされるか! 織田が遠江を狙うなら我等が食い止めねば! もしや、臆されたか!」
「そうではありません。この報せが織田の偽報ではないかと申しておるのです」
「織田の……偽報?」
「はい。山田殿を城よりおびき出し、もぬけの殻となったこの城を乗っ取ろうとしての策略ではないかと」
我ながら白々しくて仕方がない言葉を述べる。ほくそ笑まないようにするのは至難の技だったが、どうにかもっともらしく言うことはできた。
『織田が岡崎城を黙殺して遠江に向かいつつある』、この嘘情報を流したのは織田ではなく松平家だ。短い間で報告が上がるかは心配だったが、忠吉翁の持つコネのおかげで話を通すのはそう難しくはなかった。
それが偽報だと自らバラす。一見すると、ただの愚かな行為だが、この場合はマッチポンプとして機能する。
ようは、疑われる前に織田に疑いを押し付けることでこちらの信用を高める。そして、これから口にする無茶に説得力を持たせることができる。
「確かに……それはありうるな……だが……真であれば……」
「真であれば我らは孤立無援、いえ、遠江のお味方も危のうございますぞ……」
「もしかするとほかの城で裏切りがあり、道案内を買って出たのかもしれませぬな……」
オレが補足するまでもなく景隆の家臣が彼の不安を高めてくれる。城攻めにおいてその城の戦略的価値そのものを奪ってしまうというのは最上策だ、敵がその方法を見つけてしまったのならこの岡崎城は戦わずして死んでいることになる。
ましてや、誰を信用したらいいのか分からないこの状況だ。いくら山田景隆が強固な覚悟を決めていても必ず揺らぐ。いや、優秀な武将であるからこそ彼は判断を変える、変えざるをえないはずだ。
「……松平殿の御使者はいかにお考えか? そなた、噂に聞く奇妙な風体をした軍師とやらであろう?」
「はい、松平家においては非才の身ながら軍師の任を務めておりますれば」
「その知恵を貸してもらいたい。同じく今川家に奉仕する身として、松平の存念を聞かせてもらいたいのじゃ」
よし、悩んだ挙句オレに方策を尋ねてきた。これでまだこちらを信用しないようならもう少し言葉を重ねるか、内部に兵を入れてからの乗っ取りに切り替えるつもりだったが、この分ならば十分に勝算はある。
「……まず先ほどの報告ですがおそらく真偽を確かめるのは不可能かと存じます。いえ、真偽を確かめる頃には事が終わっていると申すべきでしょうか」
「ふむ……早馬を出しておる時間はない、と申すのじゃな」
「はい、真偽を確かめている間に織田はしかるべき地に着陣し、遠江侵攻の拠点を確保してしまうかと。それに先ほどご家来の方が仰ったとおりにどこかの城が裏切っていれば尚更です」
織田が遠江への侵攻をもくろんでいるという前提に立って話を進める。あくまでオレが考えうる最善手だが、それなりの説得力があるのは景隆の表情を見ていれば明らかだ。
もっとも、実際には織田は今川勢をある程度追撃したらすぐに軍を退くはずだ。一応の和議があるとはいえ、尾張の北には美濃の斉藤家が健在だ。
織田の戦略構想上の最優先目的は美濃だ、あの織田信長がその判断を間違えるとは考えられない。
つまり、オレがつらつらと述べた予想は全て外れている。だが、嘘ではない。今得られる情報だけから導き出した正しい結論だからこそ、人の心を動かすことができる。
「かくなるうえは、まずは遠江と駿河の守りを固めることが肝要かと存じます。ここから兵を退いたとしても駿府館と氏真様をお守りいたせば今川家は安泰です」
今のところはという言葉は呑み込んでおく。確かに駿河で守りを固めれば織田勢はそこまでの追撃はしないだろう。甲斐の武田と相模の北条とも同盟を組んでいる以上背後の心配もない。
まあ、武田も北条もいざとなれば同盟なんてものは守りはしないわだが。
「確かに一理ある……夜陰に紛れて城を出れば無事遠江に帰ることもできようが……」
「殿、ここは一刻も早く決断なされるべきかと。ここに残るか兵を退くか……」
「しかし、織田の策略であればまんまとこの城を明け渡すことになりますぞ」
「うむ……」
オレの策略に嵌って山田景隆は迷いに迷っている。事前に話しておいた篭城の戦略的意味、そして織田の軍勢が遠江に迫りつつあるという偽りの状況。彼は武将として難しい判断を迫られている。
「……私に一案がございます。遠江の守りとこの城の守りその二つを両立する策が」
笑い出しそうになるのを堪えながら、景隆の前に理想的な選択肢を示してみせる。普段なら一顧だにしないことだろうが、この状況ならばかならず食いついてくる。
失敗すれば、間違いなくオレはここで死ぬ。
だが、恐怖はない。むしろ楽しくて仕方がない。ピンチではあるが、この緊張感とスリルはオレにとっては最高の娯楽だった。




