42、一人の戦
『戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり』というのは孫子の言葉だ。彼の述べる戦術論にはこの考えが一貫している。戦いに勝つための術を述べたはずの武術書において戦わないことこそが最上の策だというのはおかしな話のようにも思えるが、これが実はかなり理に適っている。
孫子はなにも争いそのものを否定しているわけではない。あくまで戦争に勝ち、国を富ませるための手段として戦そのものを重視しないというだけに過ぎない。
ならば、何を重視するか。決まっている、謀略による無血の勝利こそを孫子は最善のものだと考えていた。自国の兵士の地を流すことなく、またいずれ領地となる土地の民の恨みを買うことなく、勝利へと辿り着く。すべての局面においてその理想が果たせるわけではないが、オレはこの考えに従って今まで策を練り上げてきた。
しかし、無血での勝利は血を流しての勝利よりもはるかに難しい。多くの策略をめぐらして、相手の心理を読み解き、時には味方すらも騙さなければならない。
いや、それだけで済めばいいほうだ。時には人としての心ですら邪魔になる、自分の命なんてものは最初から勘定には入っていない。
だから、この無茶も大したことじゃない。オレがこれからの人生においておそらく数多く経験するであろうそれらのたった一つだ。
「……まったくいい気分だ」
目の前にあるのは家康の故郷である岡崎城だ。
戦に備えて明かりが焚かれ、城門の周囲には完全武装の今川の兵士がたむろしている。物見の報告のとおり、やはり篭城の構えだ。今川の城代はなき主君の仇を討つために自分の死も厭わないつもりらしい。
見上げた忠誠心だが、こっちとしてはいい迷惑だ。こいつが城に残っているせいで、オレは初めて自分で馬に乗って、早馬の真似なんてしなきゃいけなくなってるんだからな。
「止れ!! なにものぞ!!」
「――松平家が家臣、佐渡忠智である!!火急の用で参った! 城代山田景隆どのにお取次ぎ願いたい!!」
馬の手綱を必死で引きながら、大声でそう叫ぶ。聞こえてないことはないだらうが、こっちの必死さを伝えるのにはこれが一番いい。
それに堂々と松平家の家臣を名乗れるのはどうにも気分がいい。集団の帰属意識の発露でしかないのかもしれないが、それでもオレには必要なことだった。
オレの仕事はこの城に立て籠もる千人の軍勢を退かせること。これからやるのはたった一人の戦というわけだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
オレが一人で岡崎城に乗り込むと言いだした時は、さすがに総反対を食らった。家康から作佐に至るまで松平家の家臣全員がオレに向かって異を唱えたというわけだ。
言い分はもこれまた全員一致で危険すぎるというもの。オレ一人をただ死なせるような真似をするくらいならば、一気呵成に城を落とすべきだと全員がそういってくれた。
確かに、もし相手にこちらの裏切りが露見しているならオレはみすみす死ににいくようなものだ。互いに使者は手に掛けないという暗黙の了解こそあるものの、裏切り者相手にそのルールを守るという保証はどこにもない。
これだけの面子がオレの命を惜しんでくれるということは、正直言って凄く嬉しい。
嬉しいが、みんな感情に判断を左右されすぎている。城攻めをするにせよ、しないにせよ、岡崎城は手に入る。今の松平軍と崩壊寸前の今川軍では勝負にならない。戦には勝てるが兵は損なわれるし、何より城攻めをすれば城の修繕を後でしなくちゃいけなくなる。
一方、オレが城内に入って敵を言葉で立ち退かせることが出来れば城は無傷で手に入る。オレの命一つを危険に晒すことでそれだけの成果を得られるなら十分に有利な取引だ。
それに、今川との人質交換のこともある。今川との手切れは最初から決まっているが、相手に伝わるのはできるだけ後がいい。戦をすれば露見は早まる、そうなれば打てる手が限られてしまう。
これだけの事を説明しても家臣団の皆は納得してくれなかった。故郷を取り返すためなら命を懸けるのは一人ではなく、我々全員だと彼らはそういって頑として譲ろうとはしなかったのだ。
家康も、忠次も、忠吉も、作佐も誰もオレの失策を責めようとはしなかった。その上で、オレだけに命懸けの賭けはさせない、とそこまで宣言してくれたのだ。
だからこそ、オレもここは譲れなかった。彼らはここまでオレを評価して、信頼してくれている。それにオレも応えなければならない。
軍師として情は邪魔だが、同時にオレはこの時代を生きる武士でもある。少なくともそうして生きることへの憧れがオレの中に息づいている。その気持ちを裏切りたくない。君子危うきに近付かず、とはいうが、今回だけは例外だ。たとえ愚か者と罵られるとしてもオレは自分が後悔するような道は選びたくない。
言わば、誇りだ。駆け出しだが、オレの軍師としての誇りはこの一線に置いておきたい。どうなっても後悔はない、ここで死ぬとしても本望だ。
そうして、オレは今この岡崎城にいる。城兵は戸惑いながらも城内へと取次ぎ、数分後には控えの間に通してもらうことができた。少なくとも城代には、こちらに会う意志はあるということだ。松平家の裏切りはまだ露見してないと見てもいいだろう。
「……軍師殿、某は後ろに控えております」
「ええ、ありがとうございます。ですが、平八郎殿、もしものことがあれば私を置いて逃げてください」
「いえ……」
背後の鎧武者、おそらくこの世界で最も頼りになるその男にそう声をかける。まあ、多分彼はオレの言葉には従わないだろう。それどころか例え百万の軍勢を一人で相手にすることになっても、彼は一歩も退かないと断言できる。
どうしても、岡崎城に一人で調略に赴くといったオレに家康は一人の若武者を護衛に付けてくれた。当然オレは断ったが、家康だけは絶対にそこだけは譲らなかった。
まさかオレがあの氷の眼光を受けることになるとは思わなかったが、実際に受けてみると鈴木重辰の気持ちが良く分かった。あれはやばい、普通の根性じゃあの視線攻撃には耐えられない。
そういうことで、オレに付けられた唯一の護衛が彼だ。推挙したのは忠吉で、オレも彼ならばと受け入れた。
このまえの大高城への兵糧入れで晴れて元服を迎えた彼の名前は、本多平八郎忠勝。
彼を評して曰く『花実兼備の勇将』、『東国無双』。字面だけでも凄まじいものがあるが、前者は信長の評であり後者は秀吉の評。
天下人二人にそう言わせるだけの武将が本多忠勝という男だ。
実際それに相応しい実力を持つのが彼という男だ。生涯に参加した戦の数はなんと57回、彼はそれだけの戦に参加して一度も掠り傷を負わなかったという。
しかも、その数々の戦で彼は逃げ回っていたのではなく常に最前線にて自ら槍を振るい、主君家康の危機を何度も救ってきたというのだから驚異的だ。
人間とは思えない武力を持つ徳川家最強の守護神、それが彼だ。戦国時代においてどの武将が最強かといわれれば議論は分かれるだろうが、こと守るという事に関して彼以上の武将はオレはいないと思っている。
「……ますます失敗できないな」
「どうかされましたか?」
「いえ、頼もしいな、と思っただけです」
そんな彼をここで死なせるわけにはいかない。オレの命だけなら安いものだが、彼はこれからも必要な人材なのだから。




