38、一心同体
人間というものは意外なほどになにも考えていない、というのがオレが十八年の短い人生で得た数少ない教訓だ。心理学では認知の節約ともいわれるが、人間はいちいち自分や誰かの行動について考察することはないし、経験則で処理できること、あるいは誰かからの指示に従っているだけでいいならそれで何もかもを済ませてしまいたがる。
それは別段悪いことではない。現代において普通に生きていくならいちいち他人の行動について考える必要性はないし、よほどのことがない限りそれが生死に関わることもない。生きていくにあたって知恵のようなものだ、なにもかもにいちいち考えをめぐらしていたら疲れることは確実だ。
だが、この戦国時代においてはなにもかもを考えないわけにはいかない。一なにが命取りになり、なにが命拾いになるか、それをきちんと把握して、なおかつ、相手の意図を考察し続けなければこの世界ではただ生きることですら難しい。
ましてや、天下を取ろういうなら、どれほど深く考えても足りないくらいだ。何もかもを読みきって、裏の裏をかいて、すべてを利用して勝利をもぎ取る。史実の家康がそうしたように狸と呼ばれでもしないかぎり、すべてを勝ち取ることはできない。
だからって、オレは自分を正当化するつもりはない。オレは今川義元を見殺しにした。
そこにはそれが必要だったからという以上の理由などない。そして、見殺しにしたならばそれを松平家のために最大限に利用するのがオレの役目だ。
「おお! 殿に軍師殿! お早いお帰りですな!!」
一時間後走って大高城の前の松平家の陣に戻ったオレたちを出迎えたのは、ホクホク顔の作佐だった。丸根と鷲津砦を既に落としたであろうことは一目で分かる。
それも当然か、オレと家康が不在だったとはいえ戦力差は明らかだったのだ。予想よりも早かったのは確かだが、問題はない。
「作佐殿、人を集めておいてもらえますか? この辺りの案内をできるものと、ついでにこの辺りの出身のものを」
「は? どうしてまたそんな――」
「説明はあとで。ともかく急いで集まり次第、本陣に来てください」
普段ならば労いの言葉の一つでも掛けるところだが、今回ばかりはそういうわけにはいかない。
今は時間との勝負だ。雨は本格的に土砂降りに変わってきている、今頃桶狭間の今川方の本陣を織田の奇襲部隊が襲っているはずだ。義元の戦死の知らせが届くまではあと三十分から一時間というところか、それまでにこちらも準備を整えておかなければ。
すでに戦略は組み立てている。多少の想定外はあったがどちらにせよすべきことは決まっている。もし問題あるとすればそれは――、
「……竹千代様、こちらに」
「………………はい」
口数の少なくなった家康の精神状態だ。
彼女はオレの行動に異論を挟んではこない。少なくともオレの言葉には彼女にオレの行動を理屈として納得させるだけの説得力はあったらしい。
だが、彼女の心中が乱れに乱れていることは明らかだ。罪悪感や言葉にしようのない哀しみ、なにが渦巻いているかは察するに余りある。
彼女のためにも、オレのためにもフォローしなければならないのは分かっている。しかし、いかんせん今はそんなことはしていられない。彼女がどう思おうともすべきことはしなければならない。
「――忠次殿!!」
「む、軍師殿か、御所の宴とやらはもう済みましたのか?」
「いえ。それより忠次殿は砦攻めの兵を大高城まで退かせて出立の準備をさせて置いてください。今川方の兵は放っておいてかまいません」
「……何か策がおありなのですな」
「そうです。準備が終わり次第、松平家の将は全員本陣に間に集合ということで。それと忠吉殿はどちらに?」
「親父殿ならまだ砦のほうにおったと思います。ワシが呼んできましょう」
道すがら見つけた忠次に忠吉を連れてくるように頼む。岡崎城についてからは彼の長年の知識が必要だ。事前に示し合わせておかなければならないことはいくらでもある。
忠次はすでにこっちに何かの意図があることを察してくれている。義元の死の知らせがくればまた一波乱あるかと思ったが、これなら案外うまく事が運ぶかもしれない。
「……軍師殿、私がすべきことはありますか?」
「……先ほど申し上げたとおり報せが飛び込んできても動じずに大きく構えていただければよろしいかと」
「わかりました……」
二人きりになって床机に腰掛けた途端、家康は自分のすべき事をオレに聞いてくる。本当なら味方の士気を上げるためにも彼女に号令をかけてもらいたいのだが、無理しているのは見れば分かるだけに複雑な注文はするきにはならない。
ここはオレにとっての正念場だ。彼女の代わりにといってはなんだが、約束どおりに岡崎城を取り戻してやる。
「……竹千代様はなにもご存知ではありません。これからすることは全て私の行うことです、よろしいですね?」
「……わかってます……はい……」
ええい、なんともまどろっこしい。彼女の気持ちは理解できないわけではないが、オレが手を汚すといっているんだから気に病む必要はない。今更反対することはないだろうが、土壇場で迷われると味方の士気にも関わるのだからもう少ししっかりして貰いたいもんだ。
いや、逆だ。彼女にしっかりさせるのがオレの仕事な以上、ここでもう一回言葉を掛けておいたほうがいいだろう。
奇襲が成功すれば史実どおり水野からの早馬で報せが来るはず。猶予は、本当にほんの少しだが存在している。
「竹千代様、まずは割り切られてください。割り切れずとも割り切っていただかねば困ります」
「……軍師殿はそう仰られますが……」
「私が申し上げるのもなんですが、こうなった以上はもう腹を括っていただくほかにありませんよ。ことがならぬ時は私を切り捨ていただいても結構です」
厳しい言葉を使って、彼女を追い詰める。この際、どう思われるかなんてことは気にしていられない。
手を汚すのはオレがやるにしても、彼女は徳川家康だ。のちの天下人としてここで臣下に才覚を見せ付けておかねば威厳が備わってこない。
言い方は悪いが、彼女にはハンデがあるのだ。過剰なくらいには力と才能を誇示してなくては人はついてこない。この戦国時代で天下を取るなら恐れられるくらいがちょうどいい。
「……私、決めました」
「それでよろしいかと。すぐに報せが来るはずですし、それから――」
「――ことがならなければ、私は腹を切ります」
「……は?」
ようやく覚悟を決めてくれたと思ったら、家康はとんでもない事を言い出した。もちろん冗談の類ではない、彼女には基本的に冗談をいえるような余裕は皆無だ。
つまり、本気だ。彼女は織田の奇襲が成功せずに、義元が生き残れば自分は腹を切るといっているのだ。いや完全に理解不能というわけではないが、飛躍しすぎだろう。
「軍師殿がどう仰っても私もあの書状を見て同じを事を考えました……御所様が身罷られれば岡崎を、三河を取り戻すことができるのではないかと……」
「ええ……ですが……」
返す言葉がなかった。彼女にはオレと違い未来知識はない、だというのに、あの書状を見た瞬間にオレと同じ結論に達していた。やはり、恐るべきは彼女の才覚、オレとて未来知識がなければ彼女には敵わないだろう。
欠けているのは狡猾さと冷酷さ、その二つだけだ。その二つをオレが補う、情の深い彼女に変わってオレが手を汚す。だが、その情が自分に向けられたときのことをオレは考えていなかった。
「御所様を見殺しにし、今川に弓を引いたのは軍師殿と私です。あなたが罪を背負うと仰るなら、私も詰め腹を切ります」
頑としてここは譲らないと彼女は視線と声だけで示してみせる。
ああ、忘れていた。家康は何かことあるごとに腹を切りたがる困った癖があったのだが、それは彼女のも共通しているらしい。オレが罪を背負っても彼女に死なれては何の意味もないんだが……全くどうして失敗できない理由ばかり増えるんだろうか。
次回更新は九月二十日、水曜日です




