37、なんと呼ばれたとしても
いざ事が起きたとき、この家康がどうするか予想が出来ていた。この短い期間で見てきた彼女の性格と考え方からして、そうしようとすることは明らかだった。
だから、彼女が真っ先に助言を求めたのには正直驚いた。オレを頼ったことにではない、彼女が届いた書状の内容から二つ目の選択肢を考え付いたという事そのものがオレには想定外のことだった。
「軍師殿……これを……」
「はい、拝読いたします」
オレに書状を渡す彼女の手は確かに震えている。それもそうか、内容が内容だ。彼女の立場で動揺するなというほうが無理があろうというものだ。
半紙を開いて内容に目を通す。こういう時は趣味に感謝だ。古文書に関しては完璧に読めるわけではないが、ある程度は把握できる。ある程度の内容が把握できればそれで相手の意図を予測するのは難しくない。
書状の内容は、予想通りに極めてシンプルかつ端的なもの。しかし、こんなことまで報せてくるとは、この水野信元は大分お人よしだ。いくら姪が相手も過保護にもほどがある。
「ぐ、軍師殿……書状にはなんと……?」
「……織田方が御所様のおわす本陣を奇襲しようとしている、とある」
「な、なんと!! それは真ですか!?」
オレがそう口にすると護衛たちはざわめきだす。驚いてはいるものの動揺はない、彼らにはあまりにも予想外のことすぎて現実味がないのだろう。水野の使者も口をあんぐり開けていることからしてなにも聞かされていなかったのは確かだ。
水野信元は織田の最高機密を家康に漏らした上で、本陣には近付くなと警告してきている。自分も含めた国人衆の寝返りの一部は偽装のものであるともここには書いてあった。すべては織田信長が仕込んだことであるとも。
オレの予想通りだ。信元が寝返りの件について家康に事前に書状を送ってこなかったのは自分の姪をこの作戦に巻き込まないためだ。
オレがいる以上、彼の忠告そのものは、言っては悪いがあまり意味はない。しかし、家康に事情を説明する手間が省けたのはありがたい。
「わ、私が走りますゆえ、いますぐ御所様の本陣に戻ってご注進――」
「……いや、待ってくれ」
「な、なにゆえ!! と、殿!!」
「私は…………」
オレが兵士達を止めると、彼らは呆然としたままの家康に指示を求めるが、返事はない。凍り付いてしまったように家康はただ宙を見つめているだけだ。
今の彼女は誰が見てもわかるほどに動揺している。織田の奇襲という事実と自分が考え付いてしまったものの間で揺れているのだ。
だからこそ、兵士達に余計な事をさせるわけにはいかない。彼女に選んでもらう選択肢はただ一つだ。決して今川の本陣に、いや、あの桶狭間に戻るなんていう愚かな真似はさせられない。
今すべきことは、大高城への帰還と岡崎城奪還への準備だ。雨が本格的に降り始めればもう止れない。ここからの数日間は眠れないものと覚悟しておかないといけない。
だが、まずは家康の説得だ。彼女がいなければなにもかもが意味がない。天下を盗るのは彼女の仕事、オレはあくまで補助だ。
「竹千代様、私の言葉を覚えていますか?」
「は、はい……?」
家康の肩を掴んで目を合わせて問い掛ける。頬を引っぱたいて正気に戻すのも考えたが、これのほうが穏やかでいい。
呆けていても美人なのには変りはないが、そんな事を気にしているような場合じゃない。水野から使者が今来たということは奇襲まではまだある程度のゆとりがあるはずだ。
想定外だが、ここで家康を説得する。ここで彼女が迷っていてはあとが立ち行かなくなる。まずは行動の指針だけでも決めてもらわなければ松平家全体が立ち往生ということにもなりかねない。
「私は、なにがあっても貴方のためにならぬことをしないと口にしました。それを覚えていらっしゃいますか?」
「え、ええ、はい、覚えています……」
「では、これからすることも信じていただきたい。私の忠心はどんな状況でも貴方のものです」
我ながら臭い台詞だが、今の家康にはこのほうが効果的なはずだ。
彼女に必要なのは誰かの肯定だ。後押しさえあれば彼女は冷酷になれる。だが、オレは彼女に手を汚させるつもりはない。軍師であるオレがここにいる以上は手を汚すのはオレの仕事だ。
「……竹千代様はここではなにも見なかった、それでよろしいですか?」
「え……?」
「これから私が兵に命じることは貴方のご承知ではないことです。万が一、織田方が失敗し、事が露見すれば私が全て勝手に行ったことと言ってくださってください」
今川義元は桶狭間で死ぬ、それは覆せない確定事項だ。しかし、目の前の家康しかり氏真しかり、計算外のことが起こる可能性は充分にある。
これは保険だ。家康はなにも見ていないし、聞いてもいない。大高城への引き上げと織田の奇襲のもみ消しはオレがやった。そうすれば、万が一義元が生き残ったとしても言い訳が立つというものだ。むろん、そうなればオレは死ぬことになるが、ここまできてそんなことに怯えてはいられない。
「軍師殿は……全てご存知だったのですか……?」
「全てではありませんが、こうなることは想定しておりました」
「……そうですか」
家康の問い掛けは正直答えたくないものだったが、嘘はつかない。オレはすべてを知っている、知った上でこの行動を取っていた。ある意味では裏切りともいえる行為だが、少なくとも今は家康はオレを責めるつもりはないらしい。
オレは何もかも知った上で、義元を見殺しにすると最初から決めていた。彼女ためだった、と口にするつもりはない。あくまでこれは全て、オレが彼女を天下人にするための布石の一つだ。
あくまで自分のため。何もかもを利用すると決めていても、自分のためにやっている事を他人に恩着せがましくするほど下品ではない。
それにことはまだ成っていないのだ。義元が生き残る可能性が億が一でもある以上、保険はかけておきたい。
「……大高城に引くぞ、できるだけ急いで」
「し、しかし、今川の本陣が!!」
「捨て置け!! とにかく進むぞ! 先導しろ!」
なおも渋る護衛たちに怒鳴りつけてでも命令を聞かせる。彼らは納得はしていないようだが、必ず命令に従うということは徹底している。あとで口止めしておかなければならないが、とにかく今は行動あるのみだ。
こういうときに忠次がいると便利なのだが、この事を納得させる手間を考えるといなかったのは不幸中幸いというべきだろう。
ともかくまずは大高城へ。義元の死は確実だが、動き出すのはその報せを受けてからだ。まどろっこしいが、軍隊というのは大義名分を必要とするのもの。義元が死んでからならばいくらでも行動は起こせる。
オレではこの尾張の山道を案内は出来ない。大高城への帰還はできる限り早いほうがいい、問題はやはりここからなのだ。ここまでのことはあくまで松平家独立のための前段階、軍師として仕事しがいがあるのは国を手に入れたあとだ。
「…………軍師殿、私は……」
「竹千代様もお早く。こうなれば一刻も早く大高城に戻らねばなりません」
何かいいたげな家康を急かして、一緒に歩き出す。彼女ともう一度じっくり話す必要があるのはわかっているが、そんな悠長な事をしている時間はとうの昔に無くなっている。
オレは家康に、手を汚させるつもりはない。甘いといわれても、この世界での自分の役割をオレはそう定義した。
本来の家康の現代での評価の一つは”狸爺”だ。もちろんこれはプラスの意味とは言えない。主家であった豊臣家を腹黒い策謀で滅ぼした狸のような人物、それが徳川家康という人物のイメージの一つだ。
彼の、いや、彼女の成し遂げた偉業の大きさから考えたらあまりにもあんまりな評価だ。オレは彼女をそんな名前で呼ばせるつもりはない。悪行と悪名はオレが貰う、彼女の行うはずだったことは全てオレがやってやる。
”家康に天下を取らせた悪党軍師”なかなか悪くない異名じゃないか。
九月十六日土曜日更新です!




