36、報せあり
義元から許可を得て数分後、オレと家康は大高城に向けてわずかな護衛をつれて出発した。これから起こる事を思えば護衛はもっと欲しかったが、怪しまれないようにする必要があったし、なによりできるだけ早く桶狭間からは遠ざかっておきたかった。
曇り空だった天気は崩れ始めている。ポツポツと降り始めた雨が甲冑の上を跳ねて、不吉な予感を確信に変えていく。
時間がない。大高城にはたどり着けなくとも、織田の奇襲に巻き込まれないと安心できる場所までは何としても逃げないと……。
「ぐ、軍師殿!? 大高城に一刻も早く戻りたいお気持ちはわかりますがそのように急がれては……!」
「そうは言ってられませんので……! 竹千代様も早く!」
焦る気持ちを押し殺しながら、ぬかるんだ山道を進む。こけて怪我しては赤っ恥だが、ちんたらしてて死んだらそれこそ意味がない。
昼間だというのに曇り空のせいで視界は悪い。大高城への道はある程度は覚えているが、迷い込めば簡単には元の道には戻れない。こんなときに地図アプリでもあればそれこそ安心なのだが、生憎とこの時代にGPSなんてものはない。
ああ、もどかしい。なにも知らない彼らを責めるのは酷というものだが、それでも今は彼らの呑気さが煩わしくて仕方がない。こうなればいっそ――、
「――っ!」
「あ、危ない!!」
そんな事を考えていたせいか、足元を踏み外す。甲冑を着ているせいで上手く踏ん張りが利かず転びそうになる。
かなりまずい、すぐ隣は斜面だ。この格好のまま転がり落ちたら良くて重傷、運が悪ければ死にかねない。当然、近くに誰かいれば巻き込む。下手に助けようと手を伸ばせばそのまま道連れになる。
「ぐ、軍師殿、大丈夫ですか?」
「え、ええ、ありがとうございます」
それがわかってるくせに一瞬も迷わずに家康は手を伸ばしてくる。細くはあるものの力強い手がオレの体をしっかりと受け止めた。
体勢としては家康が上でオレが下。家康がオレを押し倒したというのが一番近いだろうか。オレの落下を止めるにはこの体勢が一番確実だったのだろう。
助けられたオレがいうのもなんだが、軽率に過ぎる。オレと彼女の命、どっちが価値があるかといわれればそれは間違いなく家康だ。
平等なんてものはこの時代においては何の役にも立たない。立場のある人間と立場のない人間、どちらを生かすべきかなんてことは考えるまでもないことだ。心構えは立派だが、まだ総大将としての自覚が足りないかもしれない。
「……よかった……」
というか、こんな事を考えなきゃいけないのは家康があまりにも近いからだ。なんどもいうがこの家康は本来とは違い女性、それもこの世界に来るまで一度も見たこともないほどの美人だ。
水も滴るいい女というが、雨に少し濡れた髪も相まってやばいフェロモンが出てる。上気した頬を見ているだけで理性も何もかも拭い捨ててしまいそうだ。
正直やばい。オレがこんな性格じゃなきゃとっくの昔に襲いかかってるぞ。
「その……もう大丈夫ですので、お退きになられるべきかと……」
「あ、はい、そうですね………お怪我はありませんか?」
オレがそういうと彼女はなぜか名残惜しそうにしながら、素直に退いてくれる。
無論彼女のおかげで怪我はない。どこかに打撲傷をくらいはあるかもしれないが、怪我の範疇には入らない。
背後では護衛たちが心配そうにこちらを見つめている。彼らは寺部城の戦いでも一緒に戦ってくれた兵士達だ。古参の兵士だけあって家康のこともある程度把握してくれているから、こうしてアホなことをしていても呆れないで空気を読んでくれる。
「…………軍師殿、何か仰りたいことがあるならいつでも仰ってください。なにを仰っても、私は気にしません」
「そうですね……」
向かい合った家康はオレの目をしっかり見つめてそう言ってくる。心臓を鷲掴みにされたような気分になるが、いずれは言わなければならないことだから問題はない。
しかし、どういったものか。『君の育ての親のような大名は将来的には邪魔にしかならないのでここで見殺しにします、ごめんね!』とか『全部知ってたけど君のために黙ってたよ! 君のためだから許してね!』とかいう風に事実をそのまま伝えるわけにはいかない。
これが”表裏比興のもの”つまり天下一の卑怯者呼ばわりされた真田昌幸や茶に招かれたら暗殺されそうな戦国武将ランキングベスト4間違いなしの宇喜多秀家ならこのまま伝えてもいいのだが、彼女には刺激が強すぎる。
かといって、あまりに言葉を濁しすぎて疑いをもたれでもしたらこれからのためにならないし……さて、どうしたもんか……。
「――何奴か!! そこで止まれ!!」
護衛の大声が響いたのは、家康の説得を始めようとしたその時だった。護衛たちが誰かと遭遇したらしい。
頭を過るのは織田の奇襲、ここはまだ義元の本陣から30分というところ。どれくらい進んだかはおおよそしかわからないが、そこまで離れてるとは思えない。
だとしたら、どうすべきだ。現在の戦力はわずか十名、どうやっても勝ち目はない。なら、逃げるしかない、できるだけ遠くにできるだけ早く。山を転げ落ちてでも、逃げる以外には道はない。
状況確認しているようなゆとりはない。どんなときでもまず第一は行動だ。
「竹千代様!! こちらへ!!」
「え? なにが――!!」
叫ぶが速いか、それともオレが彼女の手を掴むのが速いか。今すぐ走り出せば敵の追撃を振り切れるかもしれない。
遭遇したのが本当に奇襲部隊なら目撃者は必ず始末する。今川に報せが飛べば全てが終わる、オレが織田の指揮官なら絶対に生かしては返さないだろう。
護衛たちは既に刀を抜き、槍を構えて、臨戦態勢をとっている。何が出てきたとしても時間は稼いでくれるはずだ。
「お待ちあれ! 我らは刈谷の水野信元様が家臣である! 松平の姫大将様に至急お伝えせねばならぬことがあるゆえ参ったのだ!」
「水野の……? 」
藪の中から飛び出してきた男がそう大声を張り上げる。口上とは相反して着ている服は農民のそれ、とても武士には見えないが、そこがミソだ。伝令を敵中に送るならそれとわかる格好をした人間を送り込むはずがない、見つかったときに最低限の偽装はしておくはずだ。
それにあまりにタイミングが遅いが、水野から使者が来るというのは充分にありうる。とりあえず今は織田の奇襲部隊と遭遇しなかったことを感謝しよう。
「全員武器を下ろせ! 水野殿の使者であるという証拠はあるのか!」
「は、こちらの書状を!」
オレが護衛に武器を下ろさせると使者は懐から一枚の書状を取り出す。宛名が書いてあるような間抜けなことはしてないが、丁寧に折りたたまれたそれは間違いなく極秘の密書だ。
内容も二つに一つ、オレが望むものであって欲しいが、そうでなければその時はその時だ。
「……これは真ですか?」
「い、いえ、私はただこれを松平の姪に届けよと申し付けられただけで……」
「わかりました……役目、ご苦労でした」
使者に確認した家康はただそう呟き、黙りこむ。どうやら書状の内容は彼女が決して望まず、オレが待ち望んでいた内容だったらしい。
縋るように向けられた彼女の視線の先にいるのはオレだ。なにも言わなくても彼女が何を求めているのかは理解できる。
今こそがオレの出番だ。軍師としてすべきことは彼女に判断を促すこと。最初からこうなることは予想していたが、ようやく覚悟が決まった。
手を汚すというなら既に寺部城の戦で経験済みだ。ちがうのは、今度殺すのは顔の知らない誰かではなく、名前も顔も知っている誰かということだけだ。
次回更新は九月十二日火曜日です




