31、兵糧入れ
「――では軍評定を始める」
すべての武将の視線が集まる中、義元の義理の弟でもある関口親永が軍議の開始を宣言した。
今オレがいるのは、沓掛城の謁見の間だ。今ここには今回の戦に参加するすべての武将が全員集結している。ざっとみた感じでも百人以上の武将が並んで軍議の推移を見守っていた。その中でも、オレたちの位置は義元のいる上座からも程近い場所だ。
松平家の軍議とは違って今川家の軍議には静かな緊張感がある。下手に口を開けばそれだけで首が刎ねられそうだった。
時刻は夕方、二万五千の軍勢がこの沓掛城にはひしめき合っている。さすがの大軍勢だ、この場所からでも城が揺れているように感じられる。
「此度の戦の目標は、御所様上洛に際しての地慣らしが目的でござる。そのためにはまず大高城ならびに鳴海城の救援が第一。皆衆、よろしいか?」
わかりきったことを親永が全員に告げる。大高城も鳴海城も尾張領内にある今川方の城だ。史実ではこの城の救援が桶狭間の原因だったとも言われているが、この世界では上洛戦の一環ということになっているらしい。
ともかく織田方はこの二つの城に前から圧力をかけてきているの確かだ。地ならしをするということはまず織田の圧力の排除が最初の目標、ならば狙いは織田方の砦のはずだ。
「そのためには丸根、鷲津、中島、善照寺、丹下、これらの砦を陥落せしむることが肝要。ゆえに此度の戦では軍を分け、各将にこれらの指揮を担っていただく」
これも史実どおり。戦力の分散はあまり望ましいものではないが、十倍近い戦力差がある以上、それも大した問題ではない。数とは最強の力だ、今川の作戦は史実どおり数に任せておし潰す方針のようだ。
単純明快なだけに対抗するのは難しい。野戦では絶対に勝ち目はないが、篭城しても先は見えている。オレが織田の将なら主君に降伏を勧めるか、寝返りの準備をしているだろう。
「まず善照寺には――」
それから親永は次々と諸将に配置を割り振っていく。それぞれに異論が出たり出なかったりしているが、松平家の軍議よりは比較的静かだ。最終目標は言わずもがな織田家の本拠である清洲城だろうが、ここで細かな戦略構想を教えてくれるほど今川家は配下の国人衆を信用していない。
今川の動きは大よそ知識どおりだ。ならば、問題は敵である織田の動きだ。彼らがどう動いているかを今川が把握しているか、否か、それによってこれからのオレの策も決まる。
「織田方の動きはいかがでしょうか? 既に御所様のご出陣は敵も把握しておると思いますが……」
オレの聞きたい事を尋ねてくれたのは朝比奈泰朝だ。彼としては当たり前のことをしたのだろうが、オレとしては手間が省けた。
「尾張に忍ばせた手のものによれば織田のうつけめは米と味噌を買い込んでおるとのこと。つまりは、篭城の構えと見てよろしいかと」
「これほどの差がありながら降らぬとは……織田信長、真にうつけであったか」
全員に報告したのは同じく親永。なるほど、篭城の構えか。降伏の使者が来ているといわれればそれこそ成す術がなかったが、篭城ならばまだ希望はある。
今川勢の諸将は敵が篭城と決めたと考えているのだろうが、オレの考えは逆だ。未来の知識どおりならこれはブラフだ。
もっとも、これを誰かに教えるつもりはない。オレが仕えているのは今川ではなく松平だ、オレの考えるべき事はなにが家康にとって最終的にプラスになるかということだ。
それからはそう大きな文句は出なかった。各将の配置が決まり、仕掛ける時刻も決まっている。今川の攻撃計画は緻密に練られたものだ、決行を決めたのは最近でも計画自体は大分前から考えてあったのだろう。
「――松平勢には大高城への兵糧の運び入れを担ってもらおうかの」
義元がそう切り出したのは軍議が始まってから一時間ほど経ってからだった。ガッツポーズしてやったと叫びたくもなるが、この場ではできない。
そんな場所で突然叫びだせるはずもない。真面目な表情を保っているだけ褒めてもらいたいくらいだ。
「……謹んでお受けいたします」
オレが合図を送らないので家康は義元へとそう返事をする。事前の取り決めどおりだ。
織田攻めの最前線である大高城への兵糧の運び入れ、オレの知識どおりの役割だ。文面ほど簡単な任務ではないが、それでも最前線に配置されるよりははるかに良い。
オレは家康と作佐に一つだけ嘘をついた。『敵を騙すにはまず味方から』というわけではないが、このうそはまあまあ必要な嘘ではあった。
二人には言葉を濁したが軍議において松平家にどんな役割が課せられるか、その答えをオレは知っている。分かっていてオレは二人の前で知らないフリをした。
理由は単純で彼らに無用な影響を与えたくなかったからだ。家康はまだしも忠次や作佐は知っていて知らないフリなどできない。もしこっちが自分達に与えられるであろう役割を把握していることが誰かに伝われば、軍議の内容が事前に漏れていると思われかねない。
そうなったらそれこそ大問題だ。布陣やそれぞれの将の役割は軍事機密そのもの、それが事前に露見したとなれば今川軍には大きな影響がでる。しかも、軍事機密の漏洩元が松平家となればこの戦から外されるどころか、その場で切り捨てられかねない。そんな危険は犯すくらいなら、嘘をついたほうがマシだ。
それに、オレの知ってる知識から乖離が激しいほどそれだけ先の予想ができなくなる以上、できるかぎりイレギュラーは避けねばならない。史実に忠実に、かつ被害を最小限に、この方針は絶対だ。
「そう深刻にならずとも良いぞ、竹千代。そなたにはその軍師がついておるし、泰朝も補佐に着く」
「は、ご厚情賜り恐悦至極でございます」
娘を諭すような義元に対して、家康はあくまで家臣としての態度を崩さない。軍議が始まる前は相変わらずのへタレぶりだったが始まってからはきちんと大将として振舞えている。問題はないだろう。
「このたびの戦はあくまで上洛の第一歩。織田のうつけ程度、鎧袖一触に踏み潰さねばらならぬ。みな左様心得るがいい」
「――は!」
義元の一声にすべての武将が応える。これが彼らの今回の戦への彼らの共通認識だ。決して間違ってはいないし、むしろ、状況正しく把握しているといっても過言ではない。
敵勢は二千から三千、こちらは総勢二万五千の大軍勢。数だけでみれば十倍の戦力差があるわけだ。これには孫子も太鼓判を押すだろう。
戦いというのは勝つべくして勝ち、負けるべくして負けるものだ。九割の戦が戦う前に決着が着いているもの、一部例外を除いては必ずそうなっている。
だが、この桶狭間の戦いはその数少ない例外の一つ
だ。その戦を迎える前にオレには一つだけするべきことがあった。
「ど、どうかされました? 軍師殿?」
「……いえ、なんでもないですよ」
オレの視線に気付いた家康にまた嘘をつく。オレの頭を悩ますのはいつも彼女だ。
彼女は今川家に情がある。それも当然だ、十年も過ごした場所に情がないはずがない。オレだって自分の住んでいた街を容赦なく切り捨てられるとはいい切れないしな。
彼女はきっと今川家の失墜を望んではいない。だが、松平が徳川になるには今川家には滅んでもらわなければならない。
オレは主人の望まない事をしようとしている。いや、それだけならまだいい。問題は彼女がそのときになって最善の判断を下すことができるか、その一点だ。
 




