29、嵐の前の
それから出陣までの三日間はオレにとってはありがたいことに、大きな問題は起きなかった。確保した30貫は無駄遣いしないであろう数正に任せたおかげで準備万端整ったし、それに士気という点では三河武士連中は家康がいさえすればいつでも最高潮だ。
そして、肝心の家康の出陣は義元と同じ日の朝になった。義元の出陣は昼前だから、先行して岡崎勢と合流して露払いを務めるのが目下の役目だ。
「……殿、御武運をお祈りしております」
「ええ、いってまいります」
人質として、またも屋敷に残ることになった数正が馬上の家康をそう見送る。彼が残るというのは人材の面からしては痛手だが、この家康には妻子がいない以上、彼が残るのは致し方ない。忠次の武勇は戦で必要になるし、オレが同行しないというのはまずありえない。
事前に家康に策を告げておくのもありかとはおもったが、後々の事を考えれば駿府には残りたくないのがオレの本音だ。
「軍師殿も殿のことお頼み申し上げる……」
「も、もちろんです、この命に代えてもかならずや」
思わず言葉が詰まったのは数正に苦労を押し付けたようで気が咎めたからだ。彼は万が一のときの人質だ。もし松平が今川家から離反すれば彼は真っ先に処刑されることになる。本来の歴史なら松平家の家臣の子女や家康の妻子がその役目を担うことになっているのだが、この世界では数正一人がその役目を担わされているらしい。
忠告しておきたい、というか、ことが起きたらすぐにでも逃げ出して岡崎城に合流するように告げておきたいが、それはできない。
もし事前に義元の死を彼に伝えておいたとしてそれが誰かに漏れればどんな影響があるかは想像もできない。いや、数正が喋るとは思えないが、逃走の準備が露見すればその時点で松平家にとってはアウトだ。ただでさえイレギュラーが多いのだ、独立の妨げになるような可能性があることは決してできない。言い方は悪いが、寺部城の戦いのような前哨戦とはわけが違うのだ。
桶狭間の戦いは、文句なく戦国時代において五本の指に入る有名な戦いの一つだ。当然その結果がもたらした歴史的影響の大きさも計り知れないものがある。この戦いの結果如何によってはその後の日本の歴史そのものが崩壊しかけないほどの影響力があるといっても過言ではないだろう。
今川義元が討ち取られなかったら、信長がこの戦いで死んでいたら、あるいは松平家が今川から独立しなければ……ほんの些細なことでも史実の結果と異なればどんな影響がでるのか、それはオレにも予測不能だ。
ゆえにできるかぎりオレは本来の歴史通りにことを進めようと考えている。できるだけ筋書きから逸れずに、かつ、最善の結果を出すために。家康が女という時点で何を今更と思われるかもしれないが、知識が完全に役立たずになればオレのアドバンテージも消滅してしまう。
そんな状態で、並み居る名将と権謀術数で渡り合えると思うほどオレは自惚れちゃいない。
「軍師殿? いかがされました?」
「いえ、ただ……」
「ただ?」
「鎧を着慣れないだけです。どうにもむず痒くて……」
家康に尋ねられてそう答える。実際、出陣ということで甲冑を着せられたが着慣れないのは確かだ。自分一人では無理だったから忠次に手伝ってもらったが、未だにどこかがずれてるような気がしてならない。
最初は本物の甲冑を着られるということで興奮したが、その感動も長くはもたない。いや、通気性もいいし、動きやすくもあるんだが、いかんせん大して鍛えてないオレでは宝の持ち腐れというものだ。
「はは、軍師殿にも慣れぬことがありましたか。 まあ、格好がついているだけ殿よりもよかろうて。殿が初めて鎧を着なさった時など転ぶわ、泣くわで大騒ぎでござったしな」
「た、忠次! そのようなことはお教えせずともよいのです!」
どうにも気分の重いオレと比べて二人はどうにも気楽だ。理由は単純、二人は、いやこの時代のほとんどの人間が今回の上洛を勝ち戦と捉えているからだ。
今川が負けると思ってるのは、オレとそれこそ織田信長くらいのものだ。
……そういえば織田信長か。この世界の彼? はどうなっているのだろうか。家康が女性で巫術なんてものがある以上、どうなっていてもおかしくはないが少なくとも人間ではあるはずだ。家康に聞くのも悪くないが、さて、どうしたものか。
「……静かですね」
「ええ、そうですね」
家康の言う通り早朝ということもあってか駿府の町並みは不気味なまでに静かだ。
嵐の前の静けさ、とはまさしくこれのことだろう。桶狭間を境にして日本有数の戦国大名である今川氏は滅びの道を歩み始める。あと数年もすれば駿府館は火に包まれ、風林火山の旗がはためくことになる。
そのことを知っているのはこの世界ではオレただ一人。止める義務があるような気もするが、止める必要もないような気もする。考えても埒のあかないことではあるのだが、奇妙な万能感だけは確かだった。
オレは今、歴史の転換点に立ち会おうとしている。慢心も自惚れもご法度だが、その実感くらいは噛み締めておきたかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
三河武士たちはオレたちを準備万端で待ち受けていた。何人かはこの前の戦での傷も癒えていないが相変わらず闘志に溢れすぎてるくらいだ。
総勢千人、この短期間でこれだけの人数を集められたのに自分の功績がある程度あると思うと結構壮観ではあった。
ともかく、戦力はこれで十分だ。この精強さと士気の高さなら城は手に入る。彼らが望んでやまない岡崎の城を取り戻せるのだ。
「おお!! 我らの軍師殿もご一緒か!」
「え、ええ、大戦ですからね……」
「ならば心強い!! 織田の成り上がり者共の息の根この戦で止めてくれるわい!!」
真っ先に駆け寄ってきて、オレの背中をバンバン叩くのは本多作左だ。彼なりの親愛の情の表し方なのだろうが正直痛い。
「さ、作左殿は織田はお嫌いか?」
「当たり前でござろう! 織田は先代よりの仇敵にして、若殿を幼少の砌に拐かした卑怯者よ! 」
「そうですか……」
「まあ、ワシとしては殿を質に取りおった今川ずれめのほうが嫌いじゃがな!」
呵々大笑しながら問題発言を連発する作左。鬼の作左衛門らしいといえばらしいのだが、秀吉が怒るのも無理はないのかもしれない。
歯にものを着せぬ物言いと率直な性格から、本多作左衛門重次は三河武士の鏡と言われた男。つまり、数正同様これからの松平家には必要な人物だ。
しかし、織田は嫌いだが今川はもっと嫌いか。百点満点とはいかないが及第点ではある。
桶狭間を乗り切り、松平家が独立したとしても問題は減らないどころか増える一方だ。
その一つが今回の戦の敵である織田だ。彼らとの関
係がこれからの松平家の、いや徳川家の運命を決めるといっても過言ではない。
「して、軍師殿! 今回の策ははたしてどのようなものか、お伺いしてもよろしいか!?」
「ま、まだなんともいえません……今川様より与えられる役目もわかりませんから……」
「むぅ……また今川か……なんとも憎らしい……」
オレの答えに作左は心底嫌そうにうめく。若干理不尽ではあるが、当然といえば当然の反応だ。
松平家は今川家に使い捨ての駒として使われている。本来の歴史では家康の成人後には旧領を返す約束になっていたが、この世界でもそうかは怪しいところだ。
だが、それもこの桶狭間までだ。義元が死ねば全てが変わる。何もかもがあと数日で決着がつく。




