23、早朝家康パニック
松平屋敷に帰ったオレは宣言どおり朝まで眠った。道中は悪酔いした忠次のおかげで色々大変だったが、さすがの体力お化けたちも連日の疲れで眠り込んでいたらしく、誰もオレの睡眠を邪魔しないでいてくれ
た。
正直そのまま放置されていたら昼どころか夕方まで寝込んでいただろう、その自信はある。
「――キャアアアアアアア!!」
そんなオレの睡眠を遮ったのは鶏の鳴き声でもなければ趣深い鐘の音色でもない、絹を裂くような女性の悲鳴だった。
思わず眠気も吹き飛んで布団から飛び起きる。誰の悲鳴であるにせよよからぬことが起こったのは間違いないだろう。
「た、忠次殿!? なにごとですか!?」
「おお、軍師殿もお目覚めか! おはようございまする!」
「は、はぁ、おはようございます……」
障子を開けて庭へでると上半身裸の忠次が木刀で素振りをしていた。こちらに向けてくるのはむさ苦しいのか爽やかなのか判断に困る笑顔。しかも、呑気に挨拶までしてくるから思わず返してしまった。
「じゃなくて、忠次殿、この叫び声は一体……」
「あー、これでござるか。そういえば軍師殿は初めてであったか。見に行かれると良かろう、なかなか面白いものが見られますぞ」
「わ、わかりました……?」
オレの問いには忠次は口元に意地悪い笑みを浮かべて素振りを再開する。口ぶりからするとこの屋敷の恒例行事らしい。
というか、この屋敷には女性は家康一人だし、冷静に考えればこの悲鳴は間違いなく家康のものだろう。しかし、それにしたってこんな悲鳴を上げるなんて何事だろうか。
「……まあいいか」
考えていても仕方がないので、家康の居室のほうへと歩を進める。この明るさと涼しい空気からして今は午前六時くらいだろうか。うん、久しぶりの気持ちいい朝というやつだ。
たっぷり眠ったおかげで今のオレにはこうして些細なものを楽しむ余裕があった。やはり、睡眠は大事だ。軍師として松平家の標語にしたくなるくらいにはオレはそれを実感していた。
しかし、騒がしい。家康の居室に近付いていくと叫び声に誰かの走り回るような音まで追加されてくる。一体何をやってるんだ、大丈夫か、東照大権現。
「竹千代様、何か大事でも――」
「――軍師殿おおおおおお!!」
部屋の前で声を掛けようとした瞬間、オレの声を家康の声が掻き消した。続いて障子が乱暴に開く音がしたかと思うと、オレの身体は床に転がっていた。
またこれか。この世界に来たとき日に受けた同じタックルがオレの身体を押し倒したのだ。世が世なら世界も狙える瞬発力だ、あの細身の身体のどこにこんな力が眠っているのやら。
「ど、どうされたんですか? 今度は」
「あれがあれが! 例のアレが私の部屋にぃぃぃぃ!」
オレに馬乗りになった家康はわけわからないことを言いながらその豊満すぎる身体を惜しげもなく押し付けてくる。
正直言って、部屋の中で何があったのかを気にするより先にオレの理性が怪しい。こう胸はもちろんなのだが隔てているのが布一枚なせいで全身の感触と熱がもろに伝わってくる。
危ないかなり危ない。毎回思うのだが、家康はもしかしてオレに手を出させようとしているのか……?
「と、ともかく落ち着いて話してください、アレではさすがにわかりません」
「は、はい……落ち着きましゅ…………」
どうにか引き剥がして、その場に座らせ、話を聞く。あの体勢のままだったら主にいろんな意味でオレが危険だった。
といっても、まだ危機が去ったわけではない。寝巻き姿で上気した家康は蠱惑的そのものだ。この姿だけでそれこそ三つは城を落とせるだろう。
「それで、今度はどうされました? 変な夢でも見ましたか?」
「い、いえ、その……アレが出たのです、あれが……」
「アレ?」
「御器被りです……」
「ああ、なるほど……」
拍子抜けというか、納得というか、なんというか。御器被りとはつまり、人類の不倶戴天の敵ことゴキブリのことだ。
今も昔も、彼らは変わらずこの世界に存在している。それこそ付き合いだけなら犬やその他家畜よりも長いんじゃないだろうか。
だが、付き合いは長いがわかり合うことはない。家康の上げた悲鳴は万国共通、永遠不変のものだろう。
「私、怖くて……その本当に……」
「ええ、大丈夫です、私にお任せを」
プルプル震える家康を背にして、オレは家康の私室に踏み込む。部屋の内装はオレの部屋とは大した差はない。調度品の一つもない質素さは史実の家康のケチさを思い出させた。
しかし、ここ最近は大将としての貫禄が着いたように思えた家康だが、こうしているとやはり十五歳の女の子だ。女の子に頼られている以上はオレとしてもがんばらざるをえない。大丈夫だ、顔にでも飛んでこないかぎりはやれる。
「……あそこか」
Gがいたのは部屋の奥の壁だ。微動だにせず静止している。こういう時は音を立てたりして相手に気付かれてはいけない。奇襲の要領と同じだ、ギリギリまで息を潜めて動くときには一気に動く。ちょうどいいことに近くの鏡台には懐紙があるし、あれで掴んで仕留めてしまおう。
まあ、オレの背中に半ばしがみ付いている置物が邪魔といえば邪魔だが、どうにかなるだろう。
「――よっと!」
「おお!!」
オレが一息にGを捕まえると背後の家康が歓声を上げる。軍師のとしての本分とはまったくもって関係ないが、主が喜んでるのだから善しとしよう。
「ありがとうございますありがとうございます……忠次も数正も虫くらいは自分で何とかせいと言ってなにもしてくれなくて……」
「あー、なるほど……」
一見ひどいようにも思えるが、二人の対応は当然といえば当然のものだ。一軍の大将がいちいちゴキブリやら蜘蛛やらに動揺していては兵士の士気に関わる。側近の二人は家康を女として扱うより先に若き主君として扱っているのだろう。
家康にとっては酷な話だが、松平家にはほかに跡取りがいない以上、そうするしかない。
「ともかく外に捨ててきます。竹千代様はどうされますか?」
「わ、私は着替えて参ります……」
まだプルプル震えている家康はオレから離れて部屋に残る。若干名残惜しい気もするが、まあ、離れてくれないとオレはオレで気が気でないし、ちょうどいいといえばいいだろう。
「さてと……どこに捨てたもんか……」
部屋の外でGの入った懐紙片手に思案する。我ながらマヌケな光景だが、まあ、仕方がない。捨て場所としては便所あたりがいいと思うんだが……。
「軍師殿、こちらにおられましたか」
「ああ、数正殿、おはようございます」
突っ立ているオレに話しかけてくるのは仏頂面の数正だ。
どうやらオレを探していたらしい、ちょうどいい。これをどこに捨てればいいかは数正に聞くとしよう。
「数正殿、これはどこに――」
「今すぐ居間のほうにお越しを。使者がお待ちでござる」
オレが言葉を発しようとする遮られる。数正も人の話を聞かない三河武士の一人だという事を失念していた。
しかし、使者というのは一大事だ。しかも、こんな朝早くに来るなんて吉報凶報どちらにせよ、結構な大事に違いない。
「……どちらからのご使者で?」
「今川の若殿からの御使者にござる。殿はお着替えの済み次第、私がお連れ致すゆえ、お先に」
今川の若殿、なるほど、使者を寄越したのはあの氏真か。あのよく言えば天然、悪く言えばまったく空気の読めない奴からの使者となると嫌な予感しかしない。
一刻も早く会う必要がある。もちろん、Gを便所に捨てた後で。




