21、学ぶべきこと
「――お戯れはそこまでに、御所様」
オレの思考を中断したのは氷のように冷たい声だった。声を発したのはオレの前方に座っている家康。鈴木重辰へ向けたそれがマイナス温度なら、今度のそれは絶対零度だ。
いや、援護はありがたいのだが、オレのために松平家の立場が悪くなったら全く意味がない。腹を切るにしても切らないにしても、本末転倒になりかねない。
「た、竹千代様、私は構いませ――」
「なんと申した?」
急いで進みでて止めようとするが、時すでに遅し。オレの言葉は義元の一声にかき消されてしまった。くそっ、何が軍師だ。これじゃ後手後手じゃないか。
この前の戦で家康が成長したとはいえ、相手はあの今川義元だ。いくらなんでも相手が悪い。あの武田信玄とも渡り合った男に家康が凄んだところで効果はほとんどないだろう。
「御所様の御下命ならばいかなものでもお受けしますが、お戯れで臣下に詰め腹を切らせるわけにはまいりません。このようなことは御所様のお名にも傷をつけることになりましょうや」
「竹千代、そなた自分が何を申したかわかっておろうな?」
「もちろんです。たとえ、佐渡と同じように切腹を命じられたとしても私は御諫言を曲げはしません」
実際、どれだけ理詰めで言葉を重ねても義元は表情一つ変えない。これでは家康の独り相撲だ。
だが、おかげで見落としていた可能性に気付けた。もし義元が家康の言うとおりに戯れのつもりでそういってるならこちらもまだ応じようがある。もちろんこう仮定するのはリスクは高いが、どちらにせよ腹を切らされるなら試してみるのも手だ。
まずは切腹の作法でも言い出して引き伸ばし工作だ。それが無理なら、どうとでも言い訳して切腹を先延ばしにする。最悪の場合、発狂したフリでもして逃げればいいのだ。
もし本当に本気だとしても、どうせこいつは後もう少ししたら死ぬんだ。オレはそれまでのらりくらりとかわしていけばいい。
「御所様、切腹の件ですが――」
「いいえ、軍師殿、ここは私が――」
だが、オレがそう指摘しようとすると、家康が言葉を挟んでくる。彼女は庇ってくれてるつもりなのだろうが、今は余計だ。というか、ここで言い過ぎて彼女の立場が悪くなるほうがオレは困る。
端的に言えば、黙っていろ、ということだ。彼女には義元が死んで自由に動けるようになるまでは今川の人質に甘んじてもらう必要がある。
「いえ、ここはこの私にお任せください! 竹千代様はお控えを!」
「さ、下がるのは貴方です! 私は貴方の主です! あくまで命を下すのは私です! ですので、命じます! 下がりなさい!」
そうして始まるのは謎の言い争い。こんな事をしてる場合じゃないっていうのに、なに考えてんだこいつは。
とにかくまずは家康だ。こいつをなんとかしないと義元の裏をかくどころじゃない。
「とにかく竹千代様は下がっていてください! あなたが出張ったら意味がないでしょうが!」
「それは貴方のほうですここで腹を切らせるわけには――」
「――両者そこまで!」
我ながら間抜けなことに家康と義元そっちのけで揉めていると、その義元の一声がオレたちの動きを止めた。
いや、まあ切腹を命じた相手とその主が自分の目の前でこんな事を始めたら誰でも止める。
「まったく御主らはこのワシの眼前で何をしておるのか! 折角、渋面を作っておったのに毒気を抜かれてしまったではないか!」
「は、は! 申し訳ありません!」
急いで姿勢を正してそのまま平伏するが、頭上に下りてきたのは奇妙な言葉だ。先ほどまで感じていた威圧感もかなり緩んでいる。
どういうことだ? 一体何が……。
「なに、竹千代の申すとおり戯れのようなものよ」
義元が白面に笑みを浮かべて、ようやくオレは状況を理解する。なるほど、どうりで違和感があったわけだ。
つまり、オレは担がれたのだ。軍師としては死ぬほど恥かしい話だが、オレは義元にだまされていた。
「竹千代が知恵者を召抱えたというので一つ奸物かどうか試そうと思ったのだ。のう、竹千代?」
「それにしてもお人が悪ろうございます。忠心をお試しになるならば最初の問答で十分だったかとおもいます」
どうやら事前に聞かされていたのは家康だけだったらしい。引き下がらないなと思ったが、そういうことか。
全くいい面の皮だ。独り相撲はオレのほうだったらしい。
「そう恥じることはないぞ、佐渡とやら。そなたはこの義元を前にして、嘘を吐かず、腹を切る覚悟を見せた。その度胸と竹千代への忠心は余の眼鏡に適ったのだ」
「も、もったいないお言葉です」
頭の中は死なずにすんだことへの安心やら騙された自分自身への怒りやらでごちゃごちゃのままだが、どうにかそう返すことができた。
ムカつくことはムカつくが、あの今川義元に認められたという事の嬉しさも否定できない。どんな形であれ、ずっと憧れて夢にまで見ていた相手に評価されてうれしくなるなというほうが無理だ。
もちろん、隣で今にも歯軋りしだしかねない忠次の気持ちもよく分かる。人を試す、ということは前提としてオレたちを舐めているということだ。
試したとしても相手は怒らない、もしくは、怒らせたとしても問題のない相手と思われているということ。家康が人質になっているとはいえあまりにもふざけてる。
「いやいや、許せ。この竹千代は三河の出ではあるが、余にとっては姪、いや、娘に等しくての。ついつい、心配して興が乗ってしまったのだ」
「は、はぁ、なるほど」
理屈としてはかなり上からのものだが、納得できないわけじゃない。実際、人質としての家康は雪斎禅師の教育を受け、今川家の幹部候補としての扱いを受けていた。でなければ、自身の姪である瀬名姫を娶らせたりはしないだろう。
もし義元が桶狭間で破れずに上洛していたら、家康は三河を任される大名に取り立てられていた可能性もある。この世界じゃどうにもそこまでの扱いを受けていないようだが、義元のお気に入りの臣下であることには変りはないらしい。まあ、この世界では女性だし、嫁をとらせるという策はできないわけし、色々変ってくるのは当然か。
そういえば、家康の最初の正室であるはずの瀬名姫はどうなっているのだろうか。史実ならばもう家康と婚姻しているはずだが、ほかの誰かと夫婦になったりしてるのだろうか。少なくともこの場には同席していないようだが……。
「ともかく此度の献策、見事であった。そなたがおらねば寺部城の落城にはもっと時が掛かっていたであろう」
「……お褒めに預かり恐悦至極でございます」
最初からそれだけ言えばいいだろうとも思うが、それは絶対に表に出せない。騙された借りは必ず返すが、今は機会ではない。
松平家の借りもなにもかも桶狭間で返させてもらう。これだけの人物が失われるのは惜しい気持ちもあることにはあるが、徳川家康が天下を盗る第一条件は義元の死だ。どうあれこの稀代の名将には死んでもらわなければならない。
「うむ、これからも我が娘に忠心を尽くすが良いぞ。そなたの申すとおり、松平への奉公は即ち今川への奉公でもあるのだからな」
それだけいうと義元は宴の用意を周囲に命じる。数秒後、まだ呆気にとられていた家臣たちは慌しく準備を始めた。
何もかも取り越し苦労だったわけだが、とりあえずこの場は乗り切った。それに得たのは気疲れだけじゃない、自分の中の油断を知れただけでも今回は収穫といえるだろう。
 




