20、策略
「録も地位もそなたの知恵に相応しいものを用意しよう。そなたも松平のような小さな家に仕えるより、この今川に奉公するほうがよかろう?」
義元はさも良い事のようにそう言葉を重ねるが、実態はただの罠。しかも、これは配下の武将に対する地位を利用した調略だ。
調略というのは、行って損のあるものではない。例えば敵将を寝返らせようと接触した場合、その将が寝返らなかったとしても接触に成功した段階でその策は成功といえる。接触があったという噂が立つだけで敵軍の間で不和が生まれるからだ。
『こいつは裏切るかもしれない』、その微かな疑念が生まれるだけで一つの駒の動きを鈍らせることができる。万が一策を見抜かれたとしても、軍全体に生まれた疑いはそう簡単に拭い去れず、かならず戦況に影響を及ぼす。ようは言ったもん勝ちだ、敵が稀代の名将でもなければとりあえずやっておくべきものといってもいいだろう。
オレが今受けている策は、まさしくそれだ。義元にオレを本当に配下に加えようという意図はない。単に家康の家臣に優秀な人材がいるからとりあえず粉を掛けておこうというだけだ。良くも悪くも単純な松平家にはこれがまた有効なのだ。それにオレの立場もまずい。オレはあくまでまだ客分の身で、身元さえ確かではないのだ。自分に仕えないかという義元の一言だけで折角築いた信頼関係にもひびが入りかねない。
さすがは、海道一の弓取り。初っ端から悪辣な手を使ってくれる。
「悩む必要などあるまい。余に仕えるということは竹千代に仕えるという事でもあるだからな」
「――は」
内心で舌打ちしながら、対応策を考える。まさかとは思ったが、これならばまだ対処のしようはある。どれだけの問題を生じるか、はオレの答え次第だ。
大丈夫だ、てんぱってはいるが、まだ冷静さは保っている。どう対応すべきかは先人からすでに学習済みだ。
「恐れながら、仕官に関してはお断りさせていただきたく存じます」
「ほう、余の言葉に逆らうと申すのか?」
オレが端的に答えると、息の詰まるような威圧感がさらに増す。まあ、仕官を断ったのだからそれも当然か。面子を潰したとまではいかないものの、殿上人の意向に逆らうということはただそれだけで十分に無礼にあたる。ここからの言葉次第では充分、斬首にされる可能性はあるわけだ。
もちろん、子犬のような家康はまったくアテにはならない。ここはオレ一人でどうにかしないといけないわけだ。
「恐れながら、この佐渡忠智、南蛮にて勉学にこそ励みはしましたが、未熟者にございます。非才ともうしてもよいでしょう」
「ふむ、それでは竹千代に仕えるのもおぼつかんのではないか? のう竹千代?」
義元の言葉に家康の方が分かりやすく震える。どう答えたものか考えているのだろうが、今はオレには耳打ちすることはできないし、今回は事前に言い含めてもいない。
だが、オレもバカじゃない。義元がこう来るのは分かっていた。
「加えて申し上げるならば、私は『忠臣は二君に仕えず」という故事に倣いとうと存じます」
「それはこの義元に仕えるは竹千代への不忠であると申しておるのか?」
もちろん、この答えにも義元の圧力は強くなる。周りの臣下たちの視線も次第に厳しくなってきているようにも思える。
しかし、ここで折れたら本末転倒だ。目の前でプルプルしている家康のためにもここはオレの立位置をはっきりとさせておかなければならない。
「さにあらず。私のような非才のものが二君へと奉公することがお二方への不忠になると申し上げたのです」
「……続けてみよ」
「もし私が御所様にお仕えするとなったときは竹千代様に下命をくだすときもあるやも知れません」
「道理ではあるな。その方がそこまで出世すればの話ではあるが」
オレの言葉に興味を持ったのか、義元は物言いを許してくれる。ここで怒り出さないだけ大将としての器は確かに有る。短気な武将ならこの時点で手打ちにされていたかもしれない。
その義元の器の大きさがオレの活路だ。無理を言えないような言い分を主張してしまえば、強引にオレを処罰することはないはずだ。
「そうなったときに私には公平に采配をくだすことが適いませぬ。必ずや竹千代様への恩義が私の目を曇らせるでしょう。そうなれば、御所様への不忠である上に今川家にお仕えする竹千代様にも不忠となります」
「それを避けるために余には仕えぬと、そう申すわけか?」
「竹千代様には命の恩義がございます、それを忘れることは未熟な私にはできかねます……」
つらつらと述べた言い分は半分が嘘で、半分が本当だ。
軍師の仕事は時に冷酷でなければ務まらない。誰かを犠牲にしたり陥れたりするのも仕事のうちならば、味方に憎まれることすら受け入れねばならないからだ。
ゆえに、情や未練、その他の感情は利用するものでしかない。判断に影響を受けるなんてことはあってはならない。軍師としての基礎の基礎だ、その覚悟は軍師になると決めた時点でできている。
だが、恩義のせいで判断が鈍るという言葉はもっともらしく聞こえる。これを忘れろというのはあまりにも無理強いが過ぎるし、ましてや武士にとっての貸し借りは命よりも優先すべきものだ。
これならば義元も納得するはず。彼は名家の出だ、名誉を重んじる以上は自分の器が狭く見られるような行為をするとは思えない。
「ならば、竹千代のためここで腹を切れと申したらおぬしはどうする? 切らねば余が竹千代を切り捨てると申したら?」
「――っ」
頭上から降ってきたのは予想外の言葉と豪勢な装丁の脇差だった。
あまりにも話が早すぎる。最初はこう来る可能性も考えていたが、まさか義元のような人物がこんな事を言い出すとは予想外だった。
「余の懐剣を遣わす。決して不忠はできぬというならそれでこの場で腹掻っ捌いて見せよ」
義元の声色からは嘘や試すような調子は感じ取れない。本気で言っているようにしか思えないのは、オレが追い詰められているからなのか、あるいは――、
「御所様に申し上げる! このような無理強いは――!」
「忠次殿、お気持ちだけありがたく」
忠次が憤ってくれるが、今は不要だ。義元にどういう意図があるにしても、これはオレが吹っかけられた勝負だ。簡単には引き下がれないし、誰かに代わってもらったら後に祟る。
ここで死ぬつもりはないが、勝負から逃げるのもそれもそれで我慢ならない。軍師としてはどうかと思うが、限界までやりやってやるまでだ。
「では――」
といっても、怖いものは怖い。どうにか脇差を手に取りはしたものの、指先はどうしようもなく震えている。隠そうとしたが、やはり無理だ。どうやら覚悟覚悟考えていたわりには、オレは死ぬのが心底怖くてしかたがないらしい。
けれど、ここまで来た以上は引き下がることはできない。
「なんだ? 怖気づいたか? ならば、やめてもよいのだぞ」
「……っ」
義元の挑発にも今は返す言葉もない。手にした脇差は思っていたよりもズシリと重い。大きさとしてはほんの50センチ程度だが、これは間違いなく何かを殺すための武器だ。
残念ながらオレの頭にはいまだに妙案が浮かんでこない。クソ、こういう場を乗り切るとしたら必要なのは策ではなくて頓知だ。軍師となると決めたくせに自分の命を救うための方策すら思いつかないなんて情けないにもほどがある。
「いざ……」
ゆっくりと鞘から引き抜いて刀身を眺める。できるかぎりの時間稼ぎだが、時間が掛かれば掛かるほどオレは追い詰められていくだけだ。
いっそこのままこの脇差で義元を人質にとって逃げ出すか、それとも、刺し違えるか。いや、ダメだ。どっちにしろオレは死ぬし、責任は家康にいく。どちらにせよ死ぬのだとしたら、なおのこと、やけくそになって下策を打つわけにはいかない。
ああ、くそ、一体どうすれば……。




