18、嫌な予感しかしない
駿府館、つまり、今川義元のいる屋敷は駿河、遠江、三河の三カ国の政治の中心だ。同時に、今の状況において最も天下に近い男の館でもある。そこに呼びつけられるという事の意味は、なかなか解釈が難しい。
大抵の人間は総理大臣官邸に呼びつけられるなんて経験をすることはない。よしんばあったとしても、その場合はよほどの慶事か、それと同じくらいの凶事だ。少なくとも、オレには後者としか思えない。
いや、正確にはそう思うほうが楽というべきだろうか。何か期待して裏切られるよりは最初から期待しないほうがいい。それに今のオレは軍師だ、根拠のない希望的予想はやめておくべきだ。
少なくとも義元はオレの存在を認知している。良きにせよ、悪しきにせよ、相手がこちらを認識するということは目を付けられるという事だ。そうなると、かなり動きづらい。現状のオレは誰にも警戒されてないのだ、その立場を利用することで可能な策もある。
いずれは知られることになるのはわかっていたが、ここまで早いとは……。
「――松平家が家臣!! 酒井左衛門尉忠次である!! 御所様のご用命で参った!! ただちに開門なされい!!」
舘の門前に着くと、忠次は相変わらず大声でそう呼びかける。オレとしても早く開けてくれるなら文句はない。忠次の手綱捌きは巧みだったが、乱暴であることには変わりがないので正直ケツが痛くてたまらない。一刻も早く降りたいのだ。
今川の門番も忠次の馬上からの物言いには慣れているらしく、またかという顔をしながらも門を開いてくれる。助かった。
「酒井殿、こち――」
「案内は無用! 軍師殿、着いてまいられよ!」
馬から飛び降りると、忠次は大またでずんずん進みだす。立場上この屋敷にも慣れているのだろう、確かに案内は必要なさそうだった。
といっても、オレは介添えなしだと馬から下りることも出来ないわけだが。
「遅いですぞ、軍師殿!」
どうにか馬から下りて追いつくと、忠次は振り返ることなくそう怒鳴ってくる。追いついた先にあったのは謁見前の控えの間らしき場所、そこで待っていたのは忠次だけではなかった。
「これ、忠次! 軍師殿には無礼がないよう言っておいたでしょう!」
「どこにも無礼などござらんでしょう! この忠次、最大限の礼節を尽くしていりますぞ!」
主からの注意もものともせずに忠次はスタイルを一切曲げない。ある意味清々しいが、オレ的には勘弁してほしいところだ。ここにくるまでに今川家の使用人達は忠次もオレも信じられないものを見る目で見ていたし。
控えの間にいたのは直垂に鳥帽子をつけた礼服スタイルの家康だ。格好からして義元への戦勝報告をしたばかりなのだろう。
「ぐ、軍師殿、忠次がまたとんだご無礼を……」
「いや、お気になさらず。大分慣れてきましたし」
こんな忠次でも脳筋だらけの松平家臣団の中でもかなりマシなほうだし、いちいち気にしてはいられない。
しかし、この家康は美人なだけあって鳥帽子までよく似合ってる。男装の麗人そのもの、自己主張の激しい胸さえ隠せば男子と偽っても十分に通じるだろう。
「それで……どうして私は呼び出されたのでしょうか?」
「それは……」
「まあ、殿のせいですな。だからワシは黙っておいたほうがよいといったのに……」
「あーなるほど……」
忠次のおかげで大体の事情は飲み込めた。家康が最初から涙目だった理由もこれで分かった。大体の察しは着いていたが、困ったもんだ。
いくら兵たちの間で噂になっていたとはいえ、義元がオレの存在を認知するにはあまりにも早すぎると思っていたが、どうやら家康の口から直接漏れたらしい。
これはオレのミスでもある。万全を期すならば、家康や家臣たちにも口止めをしておくべきだった。疲れていたなんていうのはは何の言い訳にもならない。
「申し訳ありません……つい……」
「いえ、いずれは伝わることではありますので……」
「大体、殿は御所に心を許しすぎておられる。あのような白塗りの――」
「――三河殿、御舘さまのお召しでござる」
忠次がやばい事を口にしようとしたその瞬間、今川家の家臣が割り込んでくれる。いや、聞かれたらかなりまずい問題発言だからむしろやばいのか? だんだん頭が回らなくなってきた。
それにまずいことに、家康に事前にどういう用件なのかを聞きだしておくこともできなかった。つまり、呼び出されたは良いものの、相手の腹が読めないという現状には変りはないのだ。
オレが義元だとして、自分の配下の家の家臣に知恵者がついた場合、どうするだろうか。例えばこれが信長のように身分を気にしないタイプなら引き抜くという選択肢もあるし、猜疑心の強い君主なら理由をつけて職を取り上げるか、最悪暗殺ということも考えられる。
今川家は名家、それも将軍家とも血縁関係もあるような名家中の名家だ。オレのようなどこの馬の骨とも知れない奴を引き抜こうとすることはまずないだろうが……。
「軍師殿……!」
「は、はい!?」
また考え込んでいると、家康はまたオレの右手を両手で取って目を覗き込んでくる。どうやらこれは彼女の癖らしいが、正直美人との至近距離での見つめあいなんて心臓に悪いにもほどがある。嫌なわけではないんだが、立場上絶対に手を出すわけにはいかない相手との急接近なんて生殺しだ。
「ご心配なお気持ちはよく分かります! しかし、御所様が何を仰ったとしても必ず私が軍師殿をお守りしますゆえ、どうかご安心を……!」
「は、はぁ、もったいないお言葉です……?」
そんなオレの心境を知ってかしらずか、捨てられた子犬のようにプルプルしながら家康はオレを励ましてくる。正直自分に言い聞かせているような気もしないでもないが、まあ、自分よりてんぱってるやつを見たおかげで少し落ち着けたのは事実だ。
まあ、家康のこの態度からしてなにかの慶事であるという可能性は一瞬で吹きとんだが、覚悟は決まった。義元が何を企んでいるにせよ、オレを殺す気でも弁明の機会ぐらいはあるはずだ。とにかくこの場さえしのぎさえすればあとは手段を選ばなければ生き延びることはできる。
まずは会ってみてだ。礼儀作法には全く自信がないが、なんとかなると自分に言い聞かせるとしよう。
一難去ってまた一難。頭が痛いどころか、物理的に頭と胴体がお別れする可能性も充分にあるがそれが戦国時代だ。まずは慣れないと、この先やっていけない。
「……しかし、騒がしいのぅ。軍師殿もそう思われんか?」
「ええ、まあ……」
案内に従って廊下を進んでいると、背後を歩いてる忠次がそう耳打ちしてくる。忠次の言うとおりこの駿府舘はどうにも騒がしい。使用人たちは慌しく廊下を歩き回っているし、門の方向からは駆け込んでくる早馬の蹄の音も聞こえてくる。
こういう騒がしさは確実に何かの兆しだ。戦か、あるいは政変か。どちらにせよ今川家にとってなにか騒がしくならなきゃいけないような事態が起こっているのは確かだ。
「――こちらでございます」
そうこうしているうちに、舘の奥、一際大きな謁見の間に辿り着く。襖越しでも中に沢山の人間がいる気配が感じられる。おそらく中では今川義元がオレたちを待ち受けているはずだ。
鬼が出るか、蛇がでるか、藪を突いてみなければ分からない。答えが何であれ、覚悟だけはしておくべきだろう。
 




