17、恐怖の呼び出し
駿府館への帰還までは結局、三日も掛かった。奪った城を今川に渡すのを三河勢が渋らなければ、二日目には帰る事ができていたはずだ。
おもに今川の使者への応対は家康と忠吉がやってくれたから、オレと忠次はおもに家臣たちを宥める役割に回った。まあ、どっちがきつい仕事だったかに関しては大いに議論の余地はあるが、事が終わったときには全員寺部城での戦以上に疲弊していたのは確かだ。
とにかく休む暇がないのがこの六日間だった。今のところはどうにか病気にも食中毒にもなっていないが、こんな日々が続いたらオレの体力では持たないのは確かだ。
しかし、もっと驚いたのは家康も含めて家臣団の全員には一切疲れている様子がないことだ。体力お化けというべきか、それとも、これぞ武士と褒めるべきなのか……オレには前者としか思えなかったが。
家康と忠次はそのまま駿府館に挨拶に向かったが、オレは先に屋敷に帰らせてもらった。流石に体力的に限界だったし、今川への報告にオレが立ち会うのも良くないと判断したからだ。
「……ふぅー」
結局、駿府の松平家の舘に帰選りついたオレは畳の上にぶっ倒れることになった。もう一歩も動きたくない、全身の汗は不快だが風呂に入る気力さえ今のオレには残っていない。
布団も敷かれてないが、目を瞑ればそのまま三日は寝込んでしまいそうだ。
「こんなに忙しいとは思ってなかった……」
オレの人生において、この世界に来てからの日々はそれまでの人生の労働すべてをあわせてもお釣りがくるくらいには。大変な時間だった。
体力勝負なのはある程度分かっているつもりだったが、ここまでのは流石に予想外だ。
こうなれば焦眉の急は体力の増強だろう。今回はまだ敵が鈴木重辰程度だったから良かったものを敵が強大になれば戦も長引く。数ヶ月、あるいは数年の長陣もありうる以上、体力がなければやっていけないだろう。
だが、どうしたもんか。敵を陥れたり、勝つための策ならいくらでも思いつくが自分のこととなると途端に思いつかなくなってくる。家臣連中に相談してもいいが彼らにしてみれば体力なんてものはあるのが前提だし、有益なアドバイスが得られるとは到底思えない。
とりあえず思いつくのは、筋トレやら走りこみぐらいだろうか。この時代にはトレーニング用具もないからそのぐらいしかできることがない。
「まずは寝るか……」
少し考えてから、どうしようもないことだと判断して睡眠に切り替える。誰かが呼びに来ても、流石に寝てると分かったら起こさないでいてくれるはずだ、多分。
「……軍師殿、膳を運んでまいりました」
「――ん? ああ、そうですか、どうも」
まどろみに身を委ね始めていると、障子の向こう側から控えめな声が聞こえてくる。大声じゃない時点で忠次ではないことは確かだし、女性のものではないから家康のものでもない。というか、分かれてからはまだ一時間足らずだ、もう帰ってくるはずがない。
となると、石川数正か。彼は今回の戦には同行していなかったから馴染みがないのも当然だろう。
「これはわざわざ申し訳ない……呼んでくだされればこちらから赴いたものを……」
「いえ、お疲れかと存じましたので」
オレが襖を開けると数正は両手に膳を持っていた。献立は出立前よりは多少は豪華なものだ、おかずとして鯛の御頭が追加されていた。そう御頭だ、胴体は残念ながらついてない。
文句は言うまい。戦に勝ったとはいえ、松平家の懐事情がすぐに改善するわけではない。この御頭は彼らにできる精一杯の贅沢なのだ。うん、そう思おう、そうでもないと現代の食事が恋しくなってしまいそうだし。
それに、些細な気遣いがここ最近脳筋にばかり関わってきたオレには嬉しい。さすが後の徳川家の参謀だ。ほかのやつらよりもまだ話が通じそうだし、これからも助けてもらうとしよう。
「某も一緒によろしいだろうか?」
「ええ、もちろんです」
眠いのもそうだが、確かに腹はかなり減っている。何か胃に詰め込めるなら詰め込んでおきたい。
人間は腹いっぱい食べて、ゆっくり眠れば大抵の事は何とかなる生き物だ。精神的に追い詰められてくるのはこのどちらかが不足したときと決まっている。
まずは飯を食い、寝る。特に後者に関してはここ最近不足していたし、とりあえず食ったら寝るとしよう。
「――軍師殿、此度の戦に関してはこの数正からもお礼を申し上げねばなりますまい」
「当然の事をしたまでです……」
鯛の頭から残らず身を剥いでいると、数正が突然そう切り出してくる。まあ、これも大分慣れてきたが、いい加減疲れてくるのも確かだ。
「いえ、三河武士は道理を申しても右から左に聞き流し、命を勝手に解釈して先走るものばかり。さぞ軍師殿も苦労なされたことでしょう……」
「は、はぁ」
何がいいたいのかと思えば愚痴を言いたかったらしい。いや、まあ今のオレには気持ちは痛いくらい理解できるが、なんというか同意しづらい。下手に同意すればお前に何がわかるとか怒鳴り返されそうだし、誰が聴いてるとも分からないのに一応の同僚の悪口を言うわけにもいかない。
かといって、数正を無視するわけにもいかないのが難しいところだ。彼は松平家中においてはオレの先輩であることには間違いはないわけだし、同じ参謀役として役に立つ人材の好感度を下げてもオレには何の得もない。
どう答えたもんか……悩ましいところだ……。
「ま、まあ、みな気難しくはありますしね……その分、豪気な方ばかりですし……」
「ええ、全く。どいつもこいつも武芸一辺倒で誰も算盤や茶には親しもうとはせぬし、交渉に関しても押しの一手で、人の話を聞こうとせぬのです。この前など――」
オレが言葉を選んで返答すると、数正の愚痴は堰を切ったようにあふれ出してくる。ここまでの勢いだと流石にオレを試そうとしているとは思えない。
しかも、勝手に酒を呑みだしているし、よほど溜っていたらしい。気持ちは分かるが、頼むから勘弁してくれ。寺部城でも酔っ払いの相手ばかりだったし、帰ってきてからも酔っ払いの相手はもういやだ。
だが、オレも馬鹿じゃない。こういう時はとにかく相槌を打って、聞いているフリをするのが一番だ。
「軍師殿!! 数正!! おるかぁ!!」
「このでかい声は忠次か。いらんこと早く帰ってきよってからに……」
オレがちょうど味噌汁を飲み終わったころに大分聞きなれた大声が玄関からここまで響いてくる。数正の言うとおり、間違いなくこれは忠次の声だ。三河武士は大体声がでかいが、忠次のはまた特別にでかいからすぐに分かる。
しかし、いくら忠次といっても平時にこんな声を張り上げることないはずだ。どうにも嫌な予感がする。なにかあったのだろうか。
「はようこられい!! 急ぎの用事じゃ!!」
「い、いかがなされましたか!?」
急いで玄関まで行くと鳥帽子姿の忠次がそこには待っていた。今川への報告の途中で戻ってきたらしい。
「いかがしたもなにもないわ! 軍師殿、馬に乗られい! ワシが手綱は引くゆえ!」
「待て待て、忠次。軍師殿が面食らっておられるわ! 先に事情を説明せい!」
ふらつきながら追いついてきた数正がオレの代わりに忠次にそう怒鳴り返してくれる。やはり、こういう時に加勢してくれる人間がいるのはありがたい。彼の出奔はなんとしても防ぐとしよう。
「今川の公家気取りから軍師殿を連れてまいれといわれたのだ! ゆえにはようお乗りなされ!」
忠次の口から飛び出したのはオレにとっては全くもって予想外の言葉だった。
今川義元がオレを呼んでいるらしい。しかし、なぜ……?
 




