14、策成れり
戦争の勝ち負けを決める一番基本的な要素は、互いの兵数だ。どんな時代であれ、まず戦の準備とはできるかぎりの兵士を掻き集めるところから始まる。できれば敵の数倍、それが無理ならば戦を避ける。確実に勝てる戦い以外はすべきでないというのも、孫子の教えだ。
しかし、現実として全ての戦いを準備万端で迎えられるわけじゃない。戦の時期や相手の思惑、金銭や兵糧、万全の準備をする前に立ちはだかる問題はいくらでもある。
今回の場合は松平家の台所事情や主家である今川家の思惑の結果、たった千五百で城攻めを行うことになってしまった。
けれど、今回の戦においては万全の状態でないのは敵も同じだ。偵察で分かった寺部城の兵力は千程度、いざという時は後ろ盾である織田家の戦力をあてにしていたようだが、今回に関してはそのアテが外れている。
敵とこちらの戦力差はほとんどない。兵の質ではこっちが勝っているから、単純に戦をするなら有利なのはこちらだろう。加えて言えば、今の松平勢には前哨戦で四つの城を落とした勢いがある。仮にこのまま城攻めを開始しても、寺部城の陥落は目に見えている。
これらのことは、寺部城の鈴木重辰も把握しているはずだ。彼とて一城を任される武将、完全な無能ということはありえない。
彼はこの状況を真っ当に理解し、真っ当に二つの選択肢を吟味したはずだ。
一つは篭城策、もう一つは出兵策。城を捨てて今のうち逃げ出すという可能性を除けば、現実的に取りうる選択肢はこの二つに絞られる。
前者の場合は、織田の援軍が来るという前提でそれまでの時間を稼ぎ、事態を打開するというのが最終目的だ。堅実な策だが、一度囲まれて援軍のアテがなければ降伏するか、全員死ぬしかない。
一方で、もう一つの出兵策は乾坤一擲の一撃にすべてを賭けるという事でもある。敵の本陣に奇襲を仕掛け、敵の総大将を討ち取る。そうすれば敵は総崩れになり、城は助かる。
もっとも、こういう奇策はえてしてリスクも大きい。奇襲を仕掛ける部隊は文字通りの命懸け、奇襲を察知されていれば準備万端の敵に真正面から突っ込むことになる。そうなればただでさえ数の少ない城兵は数を減らし、味方の士気はどん底まで落ち、城は容易く落ちるだろう。
こうした場合、賢明な将であれば篭城を選ぶ。援軍が来ると分かっていれば城を活かしての防御策は決して悪い選択肢ではない。正常な状態であれば、鈴木重辰もこちらを選んだだろう。
ゆえに、今回の作戦の要は、いかに鈴木重辰に前者を選ばせないかということにあった。そのためにオレはこの三日間、下準備をしてきたのだ。
「――おおおおおおおおおお!!」
突撃の鬨の声が響いたのは、やはり明け方のことだった。眠りの深く、最も敵陣が無防備になるのがこの時間帯だ。オレが鈴木重辰だったなら同じ時間を選んだだろう。
襲い掛かってきたのは敵勢千のうち七百程度だろうか、城に三割の兵力を残しておくというのに敵将の堅実さが垣間見える。
結果はでた、重辰が選んだのはやはり出兵策だった。リスクをとった理由はきわめて簡単、そうすれば勝てると思ったから、それだけだ。
こちらの兵力は分散して今は七百と少し。ましてや、前哨戦に勝って明らかに浮き足だっている。城攻めの前日に宴会など開いていたのだからそれは明らかだ。軍というのは意外と脆いもの、一度混乱してしまえば崩すのは容易い。奇襲のための条件は揃いすぎるほどに揃っていた。
今ならば勝てる、そう思うのは当然といえる。事実、この戦は彼らの勝ちだったかもしれない。 もし、このすべてがブラフでなければ、だが。
「――敵は前方!! 殿の御前である! 一歩も引くな!!」
一直線に向かってくる鈴木勢の前に、突如、完全武装の軍団が立ち塞がる。率いるのは老将鳥居忠吉、とても老人のものとは思えない大音声が戦場に響き渡った。
奇襲部隊を率いているのは間違いなく重辰だろうが、面食らったことだろう。敵は油断し、酒に酔い、無防備だったはずだ。
だというのに、準備万端で待ち伏せされていた。この衝撃は大きい、士気を立て直すのには時間が掛かるはずだ。
聞こえてくるのは、槍と甲冑がぶつかる甲高い音。これが戦の音、命の消費されていく様なのだろう。敵味方の兵士たちが自分の命令で死んでいくというのに未だ実感は持てないが、ただ全身に鳥肌が立っているのは分かった。
「…………っ」
隣で騎乗した家康もそれは同じようで唇を噛んで、手の震えを押さえている。極度の興奮状態、オレも彼女も熱気に当てられているらしい。
前線は目と鼻の先だ。万が一忠吉の部隊が破られれば敵の刃が届く、そんな場所にオレたちのいる本陣は置かれていた。
一件バカな行為にも思えるが、これも策の一部だ。この本陣と家康は敵の見える範囲にいなければならない。本人の了承はとったが、三日前の軍議で一番揉めたのはこの部分だった。
目の前では両軍の兵士が入り乱れ、戦況はどちらが有利とも言えない。こちらの準備は万端だが、数が均衡している以上、このままではどちらに転ぶかは時の運だ。
そう思うと、急に手が震えだしたのに気付く。情けない話だ、ここにきてオレは自分の策に不安を感じているらしい。
「軍師殿……この戦、必ず勝てます……」
「………そうですね、ええ、もちろんそうです」
家康が見計らったようにそう声を掛けてくる。胸のうちを見透かされたようで思わず気恥ずかしくなるが、不思議と手の震えは止っていた。情けないなんてものじゃない、女の子に、それも自分と同じように怯えた子に励まされるなんて。
だが、冷静にはなれた。ここまでは全て思惑の通りに事が進んでいるのだ、今更じたばたしてもできることはない。後は自分の立てた策と前線で戦う彼らを信じるだけだ。
数の上では松平勢が勝る以上、自分たちが不利とみれば敵が城に引きこもるのは目に見えている。オレは野戦をするといった、それには城から出てもらわなければならない。
ゆえに、鈴木重辰にはこちらの力を侮らせた。各城に兵が分散したのも、寺部城から見える平野に陣取ったのも、昨夜の宴会もすべては策の一部。重辰に判断を誤らせるための演技だった。
敵は兵を分散し、浮き足立ち、油断している。オレは重辰にそう思わせた。そう思わせることで自ら勝機を見つけ奇襲を仕掛けるのだと考えさせた。
その結果が、これだ。七百人の敵兵は今、逃げ場のない死地にまんまと飛び込んできた。奇襲が成立するのは敵が油断しているときだけ。この戦い方を選んだ時点で彼らの負けは決定していたのだ。
「……潮目が変った」
数分もしないうちに家康がそう呟く。前線に目をやれば確かに様相が一変している。先ほどまで均衡していた戦場は一気に松平方に傾いているようだ。
どうやら間に合ってくれたらしい。
「御注進! 御注進!!」
「ええい! 止れ! 合言葉を言え! 山と問わば!!」
「川じゃ!!」
息を切らしながら飛び込んできた伝令を護衛の武士が止める。兵士の一人に至るまで事前に言っておいた指示を徹底している、これも上々だ。ちなみ、最初に考えた合言葉をもっと長いものだったが、誰もおぼえようとしないので一番分かりやすいのにした。
報告の内容は、疲れ切りながらも喜色満面な使者の顔からも明らか。もう戦場では決着が着いているはずだ。
「酒井忠次隊、広瀬城より只今参着!! 敵の背後より攻めかかりました!」
「大義! 立ち戻って忠次に必ず重辰めを必ず捕えるように重ねて伝えなさい!」
「承知!!」
家康の命を受けると、使者は馬に飛び乗ってそのまま駆け戻っていく。やはり、最初に合流したのは忠次
の部隊だったか、信じた甲斐があったというものだ。
これがオレの今回の戦での最後の策だ。各城に幟を立てさせ兵の存在を誇示した上で、すぐさま取って返して本隊へと合流し、奇襲を仕掛けてきた敵の背後を突く。間に合うかどうかは賭けだったが、これで趨勢は決まった。
目の前ではとうとう鈴木勢は撤退を始めようとしている。
だが、無理だ。彼らは本陣を目掛けて突っ込みすぎている。背後を忠次に抑えられ、正面には頑として動かない忠吉の隊がいる。どこにも逃げ場所はない。
この戦はオレの、いや、オレたちの勝ちだ。




