55章 歪形のデウス
55章 歪形のデウス
黒煙が上がる。
人間達の平気であった金属の巨人がそこかしこに倒れ、撃ち落とされた天使や悪魔が燻っている。
空に天使達の姿はあれど追撃は無く、異様な静けさが辺りを支配している。
恐らくは向こうも限界なのだ、とゼウスは崩れた塔の上から戦場を見下ろす。
4文字が起こした戦争は世界を焼いた。
そして自らへの信仰も焼き尽くした。
そのような状況がいつまでも保つ筈が無い。
信仰が得られなければ死ぬ。
全知全能の神とて逃れられない理はあるのだ。
ならば、とゼウスは今後の事を考える。
世界の神々の大半は滅び、人間に統治をする力は無い。
生き残った神が何とかしなければならない。
インドのヴィシュヌ、北欧のオーディン、アステカのウィツィロポチトリ、シュメールのイナンナ。
皆、戦場で果てたと聞いた。
姉も死に、兄も死に、妻も死に、娘も死に、残った息子も音沙汰無し。
残った手勢でどこまでやれるか。
堅物の兄――ハデス――は黄泉帰りを許さないだろう。
まずは生きている人材の確保からかと嘆息する。
ようやく見えてきたであろう戦の終わりにゼウスは空を仰いだ。
空にある穴の中に、何かの気配を感じる事は無かった。
ふと、ゼウスの目に奇妙な集団が目に入った。
胡乱な目でフラフラと武器も持たず、所在無さ気に歩いている人間達が居た。
何処かからか焼け出されたのだろうか。
しかし、この状況で武器を持たぬなど自殺行為である。
狂ったにしても、炎に巻かれるのは哀れだ。
避難を手伝ってやるか、とゼウスが動こうとすると、背後で何者かの気配がする。
振り返った先に居たのは全身を赤いひびに覆われた死にかけの――。
「世界は戦乱に包まれ、大地には神々への怨嗟が渦巻く」
末期の声と同時に指差された方を見れば、男達が一斉に太腿に何かを突き刺す所であった。
唸り声が上がり、背骨を中心に男達の体が割れ、何かの液体を撒き散らす。
血を煮詰めたような液体が地面を汚し炎に焼かれる。
立ち上る悪臭の中、人間達が姿を変えていく。
ある者は様々な動物を繋ぎ合わせたような姿に、ある者は海から現れた魚人のような姿に。
まるで、悪魔のような姿に。
姿を変えた内の1人が、まだ無事な塔を登り、飛び越え、獣の口が天使の喉に食らいつき、地面へと叩きつけた。
天使の体がひしゃげ、甲高い音を立てねじ曲がる。
凄まじい高さらか落下したにも関わらず、何事もなかったかのように立ち上がり歩き始めた。
その動きは人間のそれでは決して無い。
その体の頑丈さは人間では無い。
背後から満足そうな高笑いが聞こえる。
「大いに結構。気が済むまで殺すといい、人間共」
「アレス――っ!」
アレスの体が霧散し、獣が号哭する。
●
あれが人間達の技術で作った兵器。
遺伝子と呼ばれるものを急速に組み換え、体を変化させる物であると知ったのは、かなり後の事だ。
様変わりした技術に疎かった事をあれ程、後悔した日は無い。
獣の遠吠えの後、再び天使達と、変生した人間達との争いが始まった。
アレスの力に感化されたかの如く、人間達は天使達を屠り、
また、天使達も乱雑に人間達を刻んでいた。
アレス。
ゼウスの息子であり、戦神。
戦時の狂乱から生まれた男であり、世界を戦乱に導く神。
あの時の人間達の行動はアレスに感化された事もあっただろう。
だが、それだけでは決して無い。
あのような物を作れてしまうのが人間の可能性であり、成長なのだ。
だからこそ。
これ以上の族長の行動、それに伴う人や国の成長は何としてでも止めるべきであると考えている。
成長が為にならぬとまでは言わない。
だが、目を離せば何処までも行き着いてしまうのが人間だ。
それを大戦争の頃に嫌と言う程、思い知らされた。
「何故です!? 天使が入り込んでいるのならば早急に手を打たねば」
「……それは我々が行う」
族長の言葉に体が軋む音がする。
この国の3柱になってから幾度と無く繰り返した問答だ。
何度も、人間達の好意を踏み躙ってきた。
ゼウスの宣言に族長が詰め寄る。
か細い声が絞り出された。
「……頼りにならぬと? 余はともかく、竜の戦士達も?」
「違う」
「……どうして」
「……」
族長の悲痛な声にゼウスは黙り込む。
どのようにすれば諦めてくれるか。
今日の族長はやけに意固地である。
一体どうしたのだ、とゼウスが口を開きかけた時だ。
「なぁ、族長よ」
この場にそぐわぬ、異様に優しい声が2人の会話を打ち切った。
ディヤウスの只ならぬ様子にゼウスは思わず目を向け、そして槍を握った。
「落ち着けよ。我がこやつに手を上げるものか」
「……」
飄々としたものだ。
だが、その言葉を受けながらもゼウスは体勢を崩さない。
かつての主神。
天空神、雷、雨、豊穣を司る神として生まれた男。
何があったか文明が起こる前に信仰が途絶え死んだ神。
そしてデウス――4文字を表す言葉――の影響を受け蘇った神。
3柱の中で最も4文字の影響を受けているのはこの男だ。
何をするつもりか。
そんなゼウスの視線も他所に、ディヤウスは慈しみに満ちた目で族長を見る。
族長が少しだけ後ずさる。
「何が不満だ? 我らが失策を犯したのならば老害の誹りも受けようが」
宥めるように族長の肩を擦るディヤウスの声はゾッとする程に暗い。
ゼウスは何故か、かつて閉じ込められたクロノスの腹の中を思い出した。
「そうでないならば我らに全てを任せればよいではないか。
戦も政治も悩みも我らに任せて、ただ安穏と過ごせば良い」
慈愛の父のように語るディヤウスの目に正気は無い。
●
ゼウス・エナリオス。
かつて男は海のゼウスと呼ばれていた。
大戦争で死に、遊牧民の国が生まれ、ゼウスが3柱として信仰を集めた影響で蘇った。
かつて程の力は無く、誰にも知られず海の底か、天界の朽ちた神殿で1人過ごす日々だ。
それ自体に問題は無い。
好色なれば人肌こそ恋しいものの、煩わしい仕事が無いのは喜ばしかった。
侮辱に対し津波を起こす必要も無く、領土争いをする事も無い。
種馬――ゼウス――や、他の神々の争いの調停をする必要も無い。
かつて、自分が作った生き物達と遊び呆けていた。
それにも飽いたある頃、ふと気になって水鏡で世界を覗いてみた。
様変わりした世界に心躍らせ、眉を顰め、そして激怒し絶望した。
神とはある種の理不尽であるべきだと思っている。
自然が摂理で御せるものか、ならば神も理不尽であるべきだ。
気ままに世界や人を愛し、作り、殺し、そして奪う、それがかつての姿であった。
それが今ではどうか。
地上で暮らしているゼウスにかつての奔放さは無く、人間達に対して、まるで4文字のように振る舞っていた。
過保護なまでに戦場から遠ざけ、問題に対して全てを先回りし解決する。
何の経験も積めず、当然のように人間は堕落し腐っていく。
それに気付いていないならまだしも、気付いているのだから始末が悪い。
これが知らずも自身を生かしている男の姿かと水鏡を踏み付ける。
それからは薄めもしない葡萄酒を呷る日々が延々と続いた。
そして――。
どれ程の時が経っただろうか。
今、海底の神殿には皇帝といけ好かない武神がいる。
2人は水鏡を見ているが何も言わない。
男は水鏡を覗いている皇帝の顔を見るも、ヴェールに覆われ、その表情は伺えない。
妙な雰囲気を感じ取ったイルカ達を追い払い水鏡を再び見る。
ディヤウスの説得に、何代目かの族長はまだ納得していない。
だが、折れるのは時間の問題だった。
いつもの事である。
2人は身じろぎもせず、水鏡を見ている。
今にも飛び出しそうな性格だと期待していたのだが、と思った所で首を傾げた。
自分は何をしたいのだろうか。
皇帝に何を言って、何をして欲しいのだろうか。
困惑しながらも男は皇帝の言葉を待っている。




