53章 悪
53章 悪
「アルフ、ブラッド、コーニーリアス、デイヴィッド……」
ベリアルが人間の真名を唱える。
そうして、彼らの頭に魔術を刷り込んでいく。
文明の遺跡、朽ち果てた教会の祭壇にベリアルは座っている。
崩れかけても尚、神の家であった事を誇示していた神性な場所。
だが、教会に先程までの静謐さは無く、空いていた天井の穴は塞がれている。
天井や壁が生き物のような肉壁と化していた。
血のように真っ赤な肉がビクビクと痙攣している。
ベリアルは先程、青年――文官――が熱心に祈っていた場所を黙って見ている。
自身の手駒を生み出す為に、壁や天井を変化させたが、何の変哲も無い床を、ベリアルは侵す事が出来ずに居た。
死体を埋めた後、ベリアルは教会に戻ってきた。
男の死に場所を、苗床に変える気にはならず、しかし、無事な建物がここしか無かった。
ベリアルには教会に対する畏敬の念など存在しない。
物質が支配する地の国で、主への信仰を代表するとして優位性を保つという考えを愚かであるとすら考えている。
だが、青年の跪いていた床だけは、何故かそのまま残しておきたかった。
有り得ない感情にベリアルの思考が混乱する。
ボコリ、と音を立てて、ベリアルの思考が中断された。
肉壁に穴が空き、中から赤い翼の天使が吐き出される。
床を汚した粘液に何故か不快感を覚え、ベリアルはそれを消し去った。
「目覚めたか」
「はイ、ベリアル様」
粘液に塗れた天使に、遺跡から掘り出した布を投げる。
ボロボロではあるが、体を拭く程度には役に立つだろう。
新たな体に慣れぬのか、恐る恐る、布で体を拭き始める。
それを見守りながら、ベリアルは肉壁に目を向けた。
男を屠った後、ベリアルは別の人間を探す事にした。
精神力の強い者が良かったが、なかなか上手く行かないものだと目を瞑る事にする。
強くなりたい者。
戦えぬ体で生まれた者。
体の変化に精神の変調をきたした者。
そして、3柱にただただ庇護されている事を良しとしない者。
彼らは呆気無くベリアルの手中に収まり、真名を捧げ、この中に居る。
再び、肉壁が音を立てた。
ベリアルは新たな天使の誕生を待っている。
●
「さて」
「ええ」
文官とマンセマットが互いに向き合う。
それを見ているのは――見張っているとも言う――行李だ。
「まずは、そうですね。何故、無価値と呼ばれるのか、そこから答えましょうか」
「おい」
文官は眉を顰める。
そんな暇は無い、と制止の声を上げるとマンセマットが笑った。
「御心配無く。こちらでも色々ありまして今はまだ部隊の編成中。
軍が来るのに早くても1ヶ月はかかるでしょう。ゆっくり探せばよろしい」
「……そうかい」
それはそれとして、何故、こちらの疑問が判ったのか。
ちら、と行李を見ると、言葉を選ぶように逡巡するような表情を見せる。
「何事も経験であるから」
「ぬぐ」
何故か止めを刺されたような気分になりつつ、文官は頭を切り替える。
侍女が持ってきた茶を啜りつつ、マンセマットにも手渡す。
ありがたく、と儀礼的な会話を受けた所で、話を進める事にした。
「まず、そうですね、古き契約の中でベリアルが司る悪は御存知で?」
「偶像崇拝と男の同性愛、獣姦、快楽を伴わない性交」
「……話が早くて何よりです」
行李が咳払いをし、マンセマットが渋い顔をした。
何故、そちらから振った話に答えたら性的嫌がらせを受けたような顔をされるのか。
納得行かない思いを抱えつつ、文官は話を促した。
「そしてもう1つ、世界の破壊」
「それは……、時代に合わせて作り変える必要があるから?」
「ええ。だから闇の子の指導者と呼ばれるのです」
ならば尚更、無価値と呼ばれる意味が判らない。
時代に合わせて何かを作り変える事は必要だろう。
「彼が無価値と呼ばれるようになったのは、悪というものに他の意味が加わったから」
「……?」
流石に言葉の意味を理解しかねた。
勢い良く行李が話に割って入る。
「判らんな。文官殿が言った後半のゴニョゴニョ……、はともかく!
他教の教えを悪とする事は文明以前から変わっていないだろう」
「ええ、後半のアレソレは時代の移り変わりと共に見る目が変わりましたが、
主が1人である事は変わっていない。加わったのは、それらとは関係無い物だ」
「御二方、言いたい事があるならハッキリ言えばいい」
文官の言葉に2人が目を逸らした。
茶を飲みながらマンセマットが話を続ける。
「グノーシス主義は御存知で?」
「触り程度には……。善と悪、霊と物質の二元論、だったか」
「充分です」
今度は至って真面目な表情でマンセマットが続ける。
「新しき契約が成された後、何度目かのグノーシス主義が発生し、我々の教えにも影響を及ぼしました。
善とは即ち、主のおわす神の国、霊的世界。悪とは即ち、物質の支配する地の国、現世。
いずれ来る神の国に現世は取って代わられ、信徒達は救済される」
「理解した。その過程で生まれたのが無価値だな?
世間一般で言われる犯罪や戒律違反の悪では無く、いずれ捨て去るべき、我々を苦しめる物。
我々の魂に何の価値ももたらさない、とされたもの」
「そうなります」
そう言って、マンセマットが文官の杯に茶を注いだ。
ありがたく受け取り、喉を潤す。
色々、思う所はあるものの、文官は頭を切り替え、話を進める事にした。
「うん、僕個人の話はここまでにしよう。ベリアル捜索の話をしよう」
文官の言葉にマンセマットが溜息を吐いた。
「何を焦っているのですか。竜がいれば捜索などすぐ終わるでしょう。
天使の国への報告なら私の念話で一瞬ですし」
「念話?」
聞き慣れない言葉に文官が首を傾げ、行李が渋い顔をした。
「天使同士、離れた場所でも会話できる……、
そちらで言う所の、エルフの精霊のようなものです」
「そうだな、お前達はそれが出来たな」
要するに、北の戦場で散々手を焼かされるような代物である事は察せられた。
この話題にはこれ以上触れず、捜索にどの程度の時間がかかるのかを聞く。
「そうだな。細かい話は干城殿に投げるとしても……」
行李がふーむ、と髭を撫で付けながら考え込む。
「遺跡を含めても、捜索に1週間もかからんだろう。
草原は見晴らしが良いし、遺跡が、手間がかかるだろうが」
「そうですか……」
行李の言葉に間違いは無いだろう。
だが、先程から何か嫌な予感が胸中に宿る。
「いや、急ごう。嫌な予感がする。マンセマット、礼儀に背くが確認したい」
「はい?!」
殺気立つ、と言っても過言では無い文官の剣幕に、マンセマットの声が裏返る。
「ベリアルの封印は神がなされたんだよな」
「ええ」
突然何を、という表情でマンセマットが返事をする。
文官は嫌な予感を消し去る為に質問を続ける。
「お前と会った時、大戦争は予言の通りに終わらなかったと言ったな。
悪魔は生き残り、異教徒は生き残り、そしてこれは僕の予想だが主は現れていない」
「……はい。ですから、あの時、語ったように何とかしようと」
ある種、秘密会談の暴露であり、無礼な言動をしている自覚はあるが、
それでも、うなじがチリチリする感覚が消えない。
こういう感覚を放っておいて碌な目にあった試しが無い。
「そんな時に、主自ら手がけた封印が解かれたら、勘違いする天使もいるんじゃないのか」
「……」
文官の言葉を受け、行李がマンセマットの方を見る。
心配のし過ぎであって欲しいという願いを打ち砕くかのように、マンセマットが顎に手を置いた。
「……1人、心当たりが」
「誰だ」
文官は立ち上がり、言葉を待つ。
マンセマットの言葉を聞いたら、すぐに動ける体勢を取った。
「権天使の長、ハニエル。名前の意味は神の栄光。
そして権天使とは信仰を守り神の名において正義を執行する天使。
……我々の中でも、最も狂信的と言っても過言ではありません」
剣を取りに戻ろうとした文官の足が止まる。
文官の顔に影が落ち、白い羽根が頭上から降り注ぐ。




