52章 悪と無価値の天使
52章 悪と無価値の天使
天井が崩れ、壁紙が剥がれ落ちている事、硝子が全て吹き飛んでいる事以外は、割と綺麗に残っている遺跡だ。
椅子と寝台が沢山置いてあり、1つくらいは無事な物があるだろうと、中を散策する。
白く大きな箱の真ん中に穴が空いている物が存在を主張している。
沢山の瓶がテーブルの上に置かれている。
何に使うのか判らない、筒に針を付けたものと一緒に置かれている。
じゃり、と硝子が踏み砕かれる音がした。
自分の物で無い足音に、今いる部屋の中から外を見る。
床に男がうずくまり、呻き声を上げていた。
体の半分が甲虫の皮膚と化している。
ゆっくりと硬い皮膚が体中に広がっていく様が見て取れた。
足音を立てても、こちらに気付いた様子は無い。
ずるずると、床を這いながら奥へ――こちら側へ――進んでいこうとしている。
その動きは生まれ持った体を使う人間の動きにしてはあまりにもぎこちなく不自然だ。
先祖返りし、後天的に悪魔人間と化した人間であると判った。
こうなった人間の末路は大体、決まっている。
徐々に変化していく見た目に耐え切れず自死を選ぶ。
「人の子よ、救いが必要か?」
「……天使!?」
男の目の前に立ち、赤い翼を広げる。
何故、という表情を浮かべ、男が叫んだ。
その場から離れようと、床を転がる男を気にせず名乗る。
「我はベリアル、悪と無価値の天使」
「……悪と無価値?」
椅子の下に隠れた男が、動きを止め、怪訝そうな顔をする。
その後、嫌悪を隠さず吐き捨てた。
「馬鹿馬鹿しい。お前達は、自分達こそ正義だと、正しいと俺達を追いやったんだ」
「全てだ。神は全てを作り給うた。善も悪も」
「……価値の無い物も、か?」
男が空虚に笑った。
ただ、吐き出すだけの意味の無い笑いだ。
ベリアルは椅子に近づき、床に寝転び、男の顔を見る。
「まぁ、聞け兄弟よ。善も悪も、天使も悪魔も同じもので作られたのなら」
「誰が兄弟か」
怯えながらもハッキリとした拒絶を示す男に構わず、ベリアルは笑みを浮かべながら言った。
男の顔は既に虫のそれになっていた。
「その体、作り直せると思わんか。我の力で」
「……!?」
例えば、この国の竜の戦士のようにしても良い。
獰猛な獣の力を持つ悪魔人間にしても良い。
望めば、天使のように金属の体を持ちながらも、空を飛べるようにしても良い。
「我はベリアル。サタンの次に作られた2番目の天使。
……闇の子として主と敵対する者。それだけの力はある」
ベリアルの声が遺跡の中に木霊する。
男の視線が迷うように揺れた。
「手を組めると思わんか。主を倒すという目的は同じだ」
ベリアルはそう言ったきり、黙った。
あとは時間の問題だ。
このまま、待っていればいい。
暫くすれば、自身の体の変化に精神が変調をきたす。
そうなれば、人間は判り易い方に――良い方向とは限らないのに――流れるのだ。
カチカチと男が身動ぎする度に皮膚が鳴る。
遺跡の中に2人の息遣いだけがある。
虫の手で床の埃を掻き毟り、男が口を開いた。
「い、らん」
自死を選ぼうとしていた人間とは思えない声にベリアルが立ち上がり、距離を取る。
男が椅子の下から出てくる。
「戦士達は、お前達を殺す為に戦っている」
「……そうか」
バサリと音を立てて赤い翼を広げた。
男が椅子を支えに、グラグラとふらつきながら立ち上がる。
まだ人の形を残した手でナイフを腰から外し、ベリアルに向けた。
「ディヤウス様は止めるだろうけど」
本望だよ。
男の言葉は最後まで紡がれる事は無く、血が白い壁を染めた。
●
「うーし、話纏めんぞ」
戦闘によって荒れた庭で皇帝が声を上げた。
庭の広場での乱闘は、皇帝、族長の2人の言葉によって止められた。
干城、武官の2人は他の戦士達に取り押さえられ、別室に通されている。
と、言うのも、マンセマットが意味深な言葉を吐き、それが看過出来るようなものでは無かったのが原因だ。
このままでは、この国に天使達が攻め込んでくる、と。
歴戦である干城は多少の冷静さを取り戻したが、武官の頭が冷えなかった。
どの道、判断を下せるような頭では無い為、2人纏めて別室に押しこめている。
「悪の天使がこっちに逃げた、天使の国は追跡中、このまんまだと天使の国から軍隊が押し寄せてくると」
「そうです。……冷静なようで何よりだ」
「王国南部出身だ。身内は飢えて死んだ。俺が1番天使と関係無い」
そう言って皇帝が手をひらひらさせる。
族長が複雑そうな顔で皇帝の頭を撫でた。
「? まぁ、とにかく聞くだけ聞くか。その悪の天使ってのはどんな奴だ?」
「天使ベリアル。かつての大戦に封印された悪の天使です」
皇帝がちら、と文官を見た。
文官は黙って頷く。
「細かい話はこいつに投げるとして……。何でこっちに来た?
お前の立場じゃ攻め込まれても問題無いと思うがな」
「不法侵入されたとは言え封印を解かれたのは、こちらの落ち度。
だからこそ攻め込むような真似は倫理にもとるでしょう?」
悪の天使、ベリアル。
別名、無価値の天使。
4大天使よりも前に作られた古い天使だ。
大戦争の頃、神と戦い、封印されたと聞いている。
神の手によってだ。
当然、そのような場所には天使の見張りと、強い――魔術的なと言うべきか――封印が施されている。
ただの人間に、そのような物が扱えるとは思えなかった。
「……解かれた? 誰にだ?」
「さぁ?」
文官の質問にマンセマットが肩を竦めた。
その表情には文官を小馬鹿にする意図も多分に含まれているが、本当に判らない、といった表情であった。
「こちらに逃げてきていると思いましたが、どうやら御存知無いようだ」
「そのような話は聞いていない……。まぁ、草原を全て見張れる訳も無し。
例えば、遺跡に向かう道すら幾らでもある」
族長の言葉にマンセマットが嫌な笑みを浮かべる。
そして文官を見た。
何が言いたいかを理解して、文官の顔が渋くなる。
「では現状、彼らが1番怪しいと」
「無いな」
族長が短く言葉を遮った。
扇子を広げ、口元に近付けた。
その仕草に文官は見覚えがあった。
鍛冶王と話す時の妖精王の仕草だ。
「疑いが、では無い。貴様の言う事を聞く気が無いのだ」
「……」
族長の言葉を、マンセマットが涼しい顔で聞いている。
空気の険悪さに戦士達や侍女達が顔に動揺を表した。
当然だ。
この国に、天使達が残した傷跡は文官が想像しているよりも遥かに多いのだろう。
だが少なくとも国の長が口にするべき発言では無い。
恐らくだが、族長はこういった場に不慣れだ。
文官は先程の会談を思い出す。
羊と鉄の交易も、わざわざ1頭の方が価値が高いと言う必要は無かった。
こちらは羊の事など何も知らないのだから、多少、吹っ掛けられた筈だ。
干城の咳払いには、そういった意味もあっただろう。
誠実で、他者の痛みを慮れる。
友人としては得難い資質が、この場では仇になりかねない。
「天使なぞより、彼らの方が余程――!」
今、この場に、族長を諌められる人間は居ない。
部屋に干城を呼びに行くべきか、と文官が走り出そうとした所で、皇帝が騎士の方を向いた。
「騎士、俺らちょっとマシ程度だって」
「陛下」
皇帝が茶化し、騎士がそれを諌め、族長が驚いたような表情をした。
場の空気が一気に緩む。
多少の沈黙の後、族長が口を開く。
「……違うぞ? 余はそういうつもりでは無いぞ?」
「判ってんよー、いいからあいつらにも教えに行こうぜ」
「本当か?! 本当に判っておるのか!?」
うぇっへっへ、と笑いながら皇帝が武官達の所へ向かう。
それを族長が慌てて追いかけた。
文官は2人を見送りながら、これからすべき事を考える。
とりあえずは、とマンセマットに聞く事を頭の中で整理している途中、ある疑問が浮かんだ。
「無価値」
文官は言葉を反芻し首を傾げる。
神との契約書に悪の記述はあっても無価値の記述は無い。
神は全てを作り給うた。
善も悪も全てお作りになった。
ならば何故、無価値と呼ばれるに至ったのだろうか。




