42章 決着
42章 決着
グノーシス主義。
それは文明の時代の遥か前に現れた。
後に生まれた4文字の教えに多大な影響を及ぼし、大勢の人間がそれを信じた時代があった。
信者は全て殺され、全容を知る者はもういない。
●
血を拭った後、狩人は大樹へと駆け出す。
ケルベロスの遠吠えが響いた。
手の甲の紋章が赤く光る。
その爪は罪人のみを引き裂く能力を持つ。
その咆哮は失った名誉を回復させる。
腕が真上から襲いかかってくる。
枝が狩人を執拗に追いかける。
前から、後ろから、誰かが放った矢も気にせず、確実に狩人を吸い殺すべく追いかけている。
襲いかかってきた無数の枝を真横に薙ぎ払う。
乾いた音を立てて折れたそれに構わず、破片に隠れ、狩人を突き刺そうと向かってきた枝に飛び乗る。
柄を槍のように使い、枝を地面に縫い止めた後、思い切り踏みつけへし折った。
地面を刳りながら狩人を捕えんと腕が這い回る。
頭上からシワシワの巨大な果実のようなものが落ちてきた。
地に落ちるとじゅうと音を立て、地面を溶かす。
煙を吸わないように口に布を当てながら果実を避ける。
振り回された根が滅茶苦茶に暴れまわる。
誰かを吸い取ろうとしている根を光の矢が撃ち、灰にした。
枝を根本からへし折ろうと大樹に取り付いている。
金属を叩くような甲高い音が耳をつんざいた。
負傷者を運び出すべく、木々の隙間をこじ開ける音が聞こえた。
入れ替わりに回復した傭兵が入ってくる。
「上だ!」
傭兵の声と同時に影が狩人と重なった。
真上に果実が降ってきていた。
死を覚悟しながらも、耳と頭を庇いながら地面を転がる。
べしゃり、と果実が叩きつけられ、割れる音がした。
「……?」
思ったような痛みは来ず、狩人は再び上を見る。
巨大な、腕の形では無い木の枝が狩人の頭上にあった。
果実の汁が枝の一部を溶かしたのか白い煙が上がっている。
思わず辺りを見回した。
バルベロと目が合った。
真っ黒に染まった目は全く動かない。
迷う方、何を考えておられるのですか。
貴女の助け方を考えています。
問題ありません、貴方達の幸福が私の幸せです。
「……」
腕がこちらに襲いかかってきた。
狩人は斧を振り上げる。
斧が木の幹を抉った。
女が目を閉じ、口が無い筈の腕が悲鳴を上げた。
バルベロ=シュブ=ニグラスの体中に赤いヒビが入る。
みしり、と音を立てて大樹が倒れ、聖母が、邪神が砂となり始めた。
倒れてくる木の幹から急いで離れる。
地面に着く前に全てが砂となり、砂の像から粉末へと姿を変える。
砂が風に乗って消えていく。
いつの間にかこちらに来ていた太刀持ちがナイフを差し出す。
それを地面に突き立て墓標の代わりとした。
●
何処かの地下。
それよりももっと深い場所。
地上と同じような場所でありながら、静かで寒い場所。
木漏れ日、月明かりが差し込む場所。
それが冥界だ。
ハデスの神殿から遥か遠くに英雄達の天国が見える。
かつて妻が春の季節と花を撒きに行った場所である。
ハデスは自身の神殿から景色を眺めている。
モルディギアンの呪縛から開放され、4文字の縛りからも開放された冥界は一定の秩序を取り戻している。
亡霊達は人間であった頃と同じような暮らしをしている。
いずれ、その時までここで暮らすのである。
稲妻が走ったかのように空が光った。
シュブ=ニグラスに捕らわれていた人間達が解放されたようだ。
次々と人間の魂が降りてきている。
少し遅れて、1人の女が冥界に降りてきた。
裸足の女である。
聖母バルベロ。
シュブ=ニグラスの呪縛から開放され、今はただの女である。
全身に赤いヒビが入っている。
かつての妻と同じように長くは無いだろう。
信仰が焼き捨てられる以前でさえも、存在が確かで無い女神で、人間である。
邪神との融合が解けた今、あるのは僅かな寿命と心残りだけだ。
岩の道に降りた後、何も言わずにバルベロは上を、地上を見ている。
ハデスは神殿から降り、バルベロの隣に立った。
「最後の生き残りが気になるか」
バルベロの瞳が揺れた。
ハデスは鼻を鳴らし、顔を反らす。
魔術師と名乗っていた男。
邪神と手を組んだ腹立たしき人間。
難儀な魂の持ち主である。
ハデスは外套をバルベロに投げて寄越す。
何事かとこちらを伺う気配がしたが、顔を背けたまま口を開いた。
「それが貴様の罰だ。……今更、我が手を出す気も無い」
さっさと楽になれ。
ハデスの声と同時に聖母の体が砂になった。
●
共和国の乱痴気騒ぎは一層激しさを増していた。
魔術師は余りの喧しさに眉を潜める。
今は誰とも顔を合わせたくなかった。
1人、人気の無い場所をフラフラと歩いている。
「それで?」
背後にいつの間にかアガレスが立っていた。
鰐に餌をやりながら、表情を変えず魔術師に問いかける。
「次はどうするつもりかね」
「……天使の国に。今ならば警備も薄い」
天使ベリアル。
大戦争の後、封じられた悪の天使。
彼はまだ天使の国で生きている。
世界の滅びにベリアルは必須だ。
悪魔の国の騒動に気を取られている間に封印を解くべきである。
火炙りにされた誰かの声が辺りに響く。
それは神の炎に焼かれた人間達と同じ声だった。
成人した頃に脳裏に蘇った大戦争の記憶は魔術師を蝕んでいる。
そして、天啓とも言うべき文明の知識を与えている。
それ故に、4文字を憎むのだ。
魔術師は炎の中に十字架を投げ入れる。
激しさを増した炎の中から声が聞こえなくなった。




