28章 災害
28章 災害
バルベロ=シュブ=ニグラス。
クトゥルフ神話とグノーシス主義が混ざり合い生まれたこの神は、
互いに相反する性質を内に抱えたが故に大幅に弱体化している。
バルベロ、ないしグノーシス主義から見れば、神、
という考えこそが物質に囚われた古い考え方であり、脱ぎ捨てるべき殻だ。
そしてシュブ=ニグラス、クトゥルフ神話から見れば、
愛を説く、善なる存在として生まれたバルベロは足枷にしかならない。
狂気と理不尽を振り撒き、神を超え神の不在を説き、
恐怖をばら撒く存在に愛と神は必要無い。
真っ向から相容れない2人が混ざった事により、
バルベロは不安定な存在となっている。
だがそれでも彼女は偉大な存在である。
●
それは朝、再び5人で集まって朝食を取っていた時の事である。
保存食を囓りながらこれから何処へ向かおうかと計画を立てていたら、
ずどん、と大きな音と階段を踏み外すような揺れに襲われた。
王国の首都に光の矢が当たった時とは桁違いの揺れだ。
他の部屋からも悲鳴が聞こえてきた。
剥げ落ちる外装から身を守り、揺れが収まるのを待つ。
「な、何が」
「後にしろ!」
太刀持ちが狩人の声を遮って扉を抉じ開けた。
よく見ると扉の下から水が入り込んできている。
地下の通りに出ると水の中に足首が浸かった。
他の人間も恐慌状態で地下から逃げ出そうとしている。
目につく扉は全て抉じ開け一行は地上へ向かって走る。
水が徐々にせり上がってきている。
「これ、海水!?」
主任が声を上げる。
確かに海岸と似たような臭いがした。
だがここから海まではかなり遠かった筈だと走りながら考えていると、
ざぶり、と水音を立てて水柱が立つ。
魚の顔、鱗に包まれた巨体、深きものが目の前に現れる。
振り上げられた腕を避け斧を頭に叩き込み、人型が深きものの体を蹴り倒し道を開く。
背後で水音と悲鳴が上がる。
「おい!」
木陰が太刀持ちに弓矢を投げ、自身は剣を抜く。
太刀持ちがそれを受け取り、矢を放った。
ぎゃあ、と深きものの悲鳴が上がる。
「エルフのようにはいかんぞ!」
「人に当てなきゃ何だって良い!」
この場でまともに洞窟の中で視界が利き、なおかつ、全てが判るのは太刀持ちだけである。
後ろは任せて狩人は出口を確保する事にする。
階段の上から光が差し込んでいる。
光は退っ引きならない状況を狩人に伝えている。
轟々と地上からも水が入り込んできていた。
水が足首から膝まで上ってきている。
粗方、片付け終わったのだろう。
大勢の人間を引き連れてこちらに走ってくる。
人型に主任を担いでもらい、狩人は急いで地下から飛び出す。
こちらに深きものは居ないが、水が足首まで浸かる有様だ。
足に水が纏わり付いて走りにくい事この上ない。
「急げ、高い場所まで走れ!」
その声に蜘蛛の子を散らしたかのように皆が走る。
「こっち!」
主任が人型の上から道案内をする。
階段や足場が崩れていない塔があるそうだ。
急いで主任が案内する方に向かうと古びた塔が見えてきた。
入り口は硝子張りだったのか全て割れていた為、鍵を抉じ開ける必要も無く、
狩人達は塔の中に入り階段を登る。
水はある程度の高さまでは上がって来ないようだが、上れる所まで上る。
狩人達は屋上に辿り着く。
そこでようやく何が起きているのか理解できた。
海が大地を飲み込んでいた。
先日見た波とは違う、茶色く濁った波が遺跡を押し流している。
それは地下への入り口や石畳すらも隠し、道に立てられている柱の半分程度の高さまで水が迫っていた。
狩人には知る由も無い言葉で表すならば、津波、と呼ばれる現象が発生していた。
誰も口を開かずただそれを見ているだけである。
どれ程見ていただろうか、荒れ狂う濁流が多少、落ち着いてきた。
ざぶ、ざぶ、ざぶ、と水音が続く。
何人もの深きもの達が水面から顔を出していた。
壁を上ってくるのかと構えるが、深きもの達がある一点をじっと見つめて動かない。
海の上、何も無い場所である。
狩人はじっと目を凝らし海面を見るがやはり何も無い。
「何が」
もう何が来ても驚かない、そんな心境にまで達した時の事である。
海が激しく揺れ、生臭い臭いが一層強くなる。
波が激しくなり、渦潮が発生する。
全身を怖気が走る。
崩れた遺跡がそれに合わせて修復されていく。
割れた塔は傷一つ無くなった後、波に飲まれた。
道にあった柱の間に紐が通るが、ぶちりと引き千切られていく。
往年の姿を取り戻した遺跡を海が飲み込んでいく。
女の悲鳴が聞こえた。
主任の方を見るが、本人も何事かと辺りを見回している。
「え? 何? あ……! あっち!」
そう言って指で示した先は別の塔の屋上だ。
恐らくは、只の人間の集団が互いに殺し合っている。
その目に正気は無く、ただ目に付く者を殺している、そのような状況である。
「なっ……!?」
「ちっ、あいつら発狂したか」
「発狂!?」
「あっちー! 今度はあっち側ー!」
どういう事かと木陰に聞こうとしたがそれは人型に遮られる。
海面が山のように盛り上がり始めている。
ごぉ、と水柱を上げながら現れたのは魚の様な鱗を持つ巨大な男であった。
恐らく、この塔よりも巨大な男であった。
海面の深きもの達が歓声を上げる。
ダゴン、ダゴン、ダゴン。
男の名前であろうそれを狂喜乱舞しながら叫ぶ。
周りの塔からの悲鳴が一層甲高くなった。
そしてそれに被せるような怒りの吠え声。
バキバキと木がへし折れる音がする。
鼻を突く刺激臭と獣の遠吠え。
森の中から一際大きな大樹が立ち上がる。
射殺さんと言わんばかりの視線でダゴンを睨みつけ、
大樹の中心人物、バルベロから光の弾が放たれた。
閃光で目が眩み、爆風で体が吹き飛ばされそうになる。
視界が戻ると目の前の光景は戦場になっていた。
深きものが植物に巻きつかれ干からび、猟犬が海に引き摺り込まれる。
海から引き摺り出された深きものが猟犬達に食われている。
そしてその上では神々が戦っている。
空が赤く燃えていた。
咆哮が全てを揺らした。
●
到底、見過ごせぬ許せぬ事態である。
弱き子らは波に攫われ、命を落とすか姿を変えるか、どちらかの運命を辿るだろう。
皆、可愛い我が子である。
救われるべき者たちである。
聖母の手から離れる事は許されない。
忌々しい、海に沈められた邪神め。
お前もヤルダバオートも皆殺す。
●
今こそ決起の時である。
バルベロ=シュブ=ニグラスによる人間への洗脳は見過ごせぬ。
神であった我らを悪魔と誹り、貶めた者達。
人間を肉の体に閉じ込め意思を奪った者達。
奴らにくれてやる信仰など欠片も無い。
4文字の手先でありながら、異端とされた売女。
お前を喰らい、4文字を殺す。
●
遺跡に立つ塔よりも高く、大きな巨人が互いに殺し合っている。
ダゴンの手から放たれた奔流が遺跡ごとバルベロを壊そうとして放たれるも、
バルベロが放った光の弾に破裂させられる。
雨のように海水が降り注ぐ。
地面を裂きながら地上に現れたバルベロの根がダゴンに突き刺さる。
呻き声を上げながらもそれを好機と見たのかダゴンはそれを引っ張り、
バルベロを海へ引き摺り落とそうとすると根が更に深くダゴンに刺さり太くなる。
海に落ちる前に吸い取ってしまおうという魂胆だろう。
幸い、場所は遠い。
じりじりと競り合っている戦場を見ながら、
狩人達はこれからどうするかを考える。
「どうする?」
「どっちかに加勢するのは当然無し、このまま打ち合っててくれた方がいい」
ダゴンが勝ってもバルベロが勝っても人間にとっては碌な事にはならないだろう。
ならば共倒れを狙って現状を維持するべきだ。
「とは思うんだが」
木陰がそう言った後に口を噤む。
言いたい事は判った。
この戦いはどれほど続くのか、そして無事にこの場から離れられるのか、という事だろう。
「取り敢えず海から離れよう、
森を通らずに王都か壁の方に向かう感じで、……水が引いたら」
最悪、遺跡の間を跳躍して行く事も検討するべきか、
と準備運動をしていると屋上の入り口から深きものが数匹入ってくる。
片目が潰れており、先日、戦った深きものである事が判った。
「ジリ貧だな……!」
太刀持ちが真っ先に先手を取り敵を1匹斬り伏せる。
それに続き狩人も入口に向かう。
扉の近くで戦えば相手の行動を制限させられる為だ。
相手もそれは理解しているようで、急ぎ足で屋上に入ってくる。
出来るだけ入れないようにしてはいるがどうしても撃ち漏らす。
後ろの方をちらりと見ると各自、苦しいながらも対応できているようである。
人型は主任を庇いながら敵を次々と海に叩き落とす。
やはり人間、悪魔人間よりも数段、力が上なようで一筋縄ではいかないようである。
主任もナイフで応戦するが力の差は歴然だ。
悲鳴を上げながら攻撃を避けていると急に深きものが倒れる。
「悪趣味な連中だ」
木陰が奇妙な白い箱の上から矢を放ち、次々と深きものを仕留めている。
「全くだよ! 顔も声も怖いし思わずちょっと漏らして」
「……」
「ここから南東の方に街と遺跡があるからそこに逃げたら良いんじゃないかなぁ!」
「そうか」
各自対応出来ているようで何よりである。
狩人はそう判断し、目の前の敵に集中する。
仲間を呼んだらしく、階下から聞こえてくる水音は激しい。
「!」
背後から不意を突かれ、羽交い締めにされる。
手始めに前にいる深きものを蹴り上げ吹き飛ばし、後ろの敵から逃げ出そうとするも、
ズルズルと狩人の体が海に向かって引き摺られている。
「こっの……!」
体を捻り、深きものの顔に肘を入れる。
よろめいた拍子に拘束は解けたが体は屋上から投げ飛ばされた。
下で泥流がうねりを上げている。
太刀持ちの手が空を掴んだのが見えた。
右手の紋章が赤く光った。
●
この場所を簡単に表すならば、どこまでも深い穴の底である。
暗く冷たい地の底に、朧気ながら光がある。
岩で造られたと思われる細い道がそこら中に張り巡らされている。
狩人は道の途中の広く造られた場所に倒れていた。
ここは、と周囲を見回し硬直する。
「っ……!」
帝国の地下で戦った3つの首を持つ犬がこちらを見ている。
武器を構えるが、気にした風もなくスタスタと歩く。
時折、止まってはこちらを見て再び歩き始める。
「……ついて来いってか」
狭い道を黙々と歩く。
風では無い冷たい何かが体を通り抜ける。
あまりに静かで、キーンと耳鳴りがする。
どれ程、歩いたか考えるのも馬鹿馬鹿しくなった頃、目の前に大きな階段が現れる。
その上にあるのは白い石で出来た建物だ。
犬の後ろについて歩き、階段を登ると扉が勝手に開く。
建物の中の光景と雰囲気に既視感を覚えた。
帝国の、玉座の間。
そのような印象を覚えた。
建物の奥にはそのような椅子があり何者かが座っている。
陰気な青年である。
顔は整っている。
美形に入る部類の筈だが、それを上回る何かが影をもたらしている。
年は狩人より上だろう、という事しか判らない。
二叉の槍を持ち、黒い鎧を着ている。
犬が青年の下に走り、大人しく座る。
「狩人」
「へ? は、はい?」
急に名前を呼ばれ思わず声が裏返る。
そして、この男は何故、自分の名前を知っているのかと疑問に思う。
「アンタは……」
狩人が名前を聞こうとした途端に足元がふらつき、意識が遠のく。
いつの間に移動したのか、狩人は男の腕に倒れ込んだ。
「我はハデス、ここは我が国、冥界である」
意識の遠くで青年が名乗るのが聞こえた。




